Under the hazymoon

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無意識の発見による作者の特権の収奪

北條さんの報告を聞いて、作家論なんて文学研究か?と思ってたこと自体、真っ当な近代の病であったことに気づかせてもらってから、文学研究を史伝とみることで近代の修行論として位置づけ直す必要あるなと考えていました。
例えば私小説を近代人の史伝とみれば、そこには近代以前からの伝統の継続を見出せること、そして近代文学研究が作家論に陥るのも作品を史伝として補完を志向するものとして機能していることなどなど。
そんなことを考えていたせいで、先日のブイスーさんの講演でああと納得したのは、無意識の発見は作品の中だけから作者を立ち上げることで、近代的な作品論をも史伝として機能させてしまうのだなあということ。たぶん文学論ちゃんと読んだらどこかに書いてあると思うけど。
銃夢』の中に民族的トラウマを見出し、作者が意識してのことではないだろうという指摘は、その後の質疑を聞いてもそれが作品の魅力とほとんど関わりがないように思える点でどうかなと思ったけれど、無意識ということで作品と現実の作者を切り離せるのだというところに僕はくいついたのでした。作品間の影響関係よりも同じエスプリを見出せることに興味があると言い切るあたり、それが比較文化の醍醐味だよなーと同意しました。いや具体的な影響関係を論じてこその比較文化という考え方も正しすぎるほど正しいけど、僕はそれだけでは一面的だと思うのです。
もっとも、トラウマという問題自体は、例に挙げられた『GTO』『花より男子』の方がそれが作品の魅力の中心にあるという点で筋がいい議論だと思いました。
世紀末後の世界(ポストアポカリプスって書くとなんだかかっこいい)が日本のマンガで散見されるのに、フランスのバンドデシネではほとんど見られないのは、敗戦という民族的トラウマを近い時代に共有していたからだという指摘は、そうだろうなと思いました。というのも、モチーフとしての世紀末後の世界における再生は、世界的に共有される物語だからです。ノアの方舟のような洪水神話はどこにでもみられるし、何度となく繰り返し語られてきました。道教の種民や仏教の末法とかもそうです。ようすれば、普遍的なモチーフが個別的な体験の記憶によって強化されて語り直され、また普遍的なモチーフに昇華されるからこそ個別的な体験が広く共有されるということなのでしょう。