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「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?−「孝」の思想、性善説、アーキテクチャ−」補遺3

共生思想研究年報2009掲載の拙論の補遺。
爆笑問題の太田光さんが『爆問学問』で「専門家こそ今の世の中をもっといいもんだと言ってくれ」というようなことを何度か言われてますが、今回の論考はまさにそういう立場で書きました。で、身近なところを気にしてたら、業界の上の方にも問題が。。。日本学術会議「日本の展望―学術からの提言2010」素案(PDF形式)(平成21年10月19日)の第3章 21 世紀の学術研究のダイナミズム(動向)と展望>(1)科学者コミュニティは学術の展望をどのように語るか>(2)各学術分野での学術研究のダイナミズム(動向)と展望>? 人文・社会科学において、次のように語られています。
事例1:p.21

21 世紀を特徴づけるグローバル化は、資本主義経済を地球の全域に押し広げ諸地域の発展を促し、人権の観念を普遍化しているが、それと同時に世界の社会的経済的格差を拡大し、現実の不平等を強め、加えてグローバルな経済危機をもたらした。

事例2:p.22

他者が交流し合う公共的な空間において相互の交流と理解のために用いられる「公共的言語」(書き言葉と話し言葉)の力の衰えが憂慮される今日、これを再確立することは、自他の理解を深めるとともに、発信力・受信力を高め、社会の構想力を豊かにすることに通じる。さらに、現代社会が構造的に産み出す人々の「心の空洞化」を乗り越えるためには、「ともに生きる価値」の再認識に向けて人文知の貢献が必須である。

事例1については、例えば山形浩生さんが訳された英エコノミスト誌の記事の真逆の結論と比べてみると、どうも話は単純でないように思われます。
事例2ついても同様。出たばかりの『思想地図』vol.5*1所収の佐藤俊樹「サブカルチャー/社会学の非対称性と批評のゆくえ−世界を開く魔法・社会学篇」によれば、よくいわれる共同体の

「解体」論の図式が経験的な裏づけを欠くことは、さまざまな専門研究で指摘されている。家族の規範力や教育力が低下したともいえないし(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書、一九九九年*2など)、若者の社会性が低下したわけでもない(浅野智彦編『検証・若者の変貌』勁草書房、二〇〇六年*3など)。むしろコミュニケーションがより濃密で繊細になったために「コミュニケーション不全」が感じられやすくなった、というのが今の社会学での一般的な見解だろう。
 「社会の底が抜けた」(宮代真司・速見由紀子『サイファ 覚醒せよ!』筑摩書房、二〇〇〇年*4)と評された「理由なき殺人」事件が昔からずっと報道されてきたことも、今は常識となっている(菅賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館、二〇〇七年*5など)。殺人事件の発生率は傷害致死などもふくめて、小さな増減を繰り返しながら長期低下してきている。少なくとも日本語圏では社会性は徐々に上がりこそすれ、下がってはいない(佐藤俊樹「事件を語る現代」大澤真幸編『アキハバラ発〈00年代〉への問い』岩波書店、二〇〇八年*6)。
(p.212)

と、そもそも“提言”が前提とするような事実認識を否定するような結果を示す研究もきちんとあるわけです。ここで問題となるのは、どちらが正しいか、ではありません。経済学や社会学としてならもちろんそこが主戦場です。しかしそもそも古典研究を主な生業としている中国哲学が、その成果をもって現代の社会を論じようとするとき、わざわざ世の中は悪いという解釈の方を採用しておいて、だから朱子学が、陽明学が必要なんですと言うのって、マッチポンプじゃなきゃ何なんだ、そんなんだから人文学いらん言われるんじゃないのかと思うわけです。論考の方ではこうした世の中別に悪くなってないという研究の参照は十分ではなく、どちらの事実が正しいかという認識の問題ではなくどう解釈しようとするかという意志の問題の方に注目して議論を展開しています。その分主張が弱くなっているのは確か。次の機会に補足するつもりです。

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*2:[asin:4061494481:detail]

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