Under the hazymoon

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身体からみた全真教と正一教

内丹による自利行中心の全真教のような丹鼎派と呪符による利他行中心の正一教のような符籙派とは、宗教的な行為としては全く異なることをやっているようにみえます。しかし、白玉蟾が内丹と雷法を接続したり、陳致虚が度人経を利他行の読誦に重ねて内丹を説く書としたりなど、両者をつなげる思想は存在し、理論的な説明は可能です。
ただここでもう一つ注意ておくとよいと思うのは、両者に共通する身体感覚です。丹鼎派についていえば、内丹においてもっとも重要な身体感覚として挙げられるのはやはり、丹田、ということになるでしょう。そして符籙派は、実際に行っている宗教的な行為がいかなる実践かを問えば、呪符はそれを書くのは書法によりますし、科儀は経典の読誦や賛歌、つまり歌唱によります。では書法や歌唱に共通する伝統的な身体感覚といえば。。。そう、やはり丹田なのです。
つまり、理論的な説明として内丹による気の力を使うというのは、身体感覚として神秘的な方向に舵を切ることなく了解できる前提条件とすることができる、のではないかと思うのです。
共有される身体感覚があればこそ、その実践において両者を結びつけることが現実的な選択肢として存在してきたのではないでしょうか。
特に文献的に立証できるわけではなく、儀礼で気持ちよさそうに歌ってる道士さんを見てて、そういう仮説が頭に浮かんだまでです。もっともこないだの学習院シンポでのやりとり*1が念頭にあってのことで、そう筋は悪くないと思ってます。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20100717/p1
http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20100718/p1