Under the hazymoon

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花いちもんめと歩法

環境/文化研究会での深澤さんの禹步に関する報告*1はとても参考になりました。地鎮め=結界としての禹步に先行するものとして、歩くこと自体の聖化としての禹步を考えるというのは、確かにおもしろい。もっとも前者は歩くことで世界を変えるわけで、人ならぬ歩き方=神の降臨がその場を聖化するという点では異なるものではないのでしょう。
またやはり、そもそもなぜそのような歩き方が採用されたのか、という点については、身体性としてアプリオリにある身体感覚を、それが決定的な要素とは限らないにしても目配りしておいた方がよいように思います。学習院のワークショップ*2で少しやらせてもらったスコットランド民謡のステップは、社交ダンス以前のヨーロッパのダンスステップも同じようなものだったそうですが、花いちもんめに似て手をまったく動かさず歩きながら足のステップで変化をつけるものになっています。現代の道教儀礼で行われる禹步もステップが似ているんですね。体幹を中心にして、(歌がともなうために)安定して動くには、身体動作は自然と限られてくるのではないか、そう思います。宗教儀礼では歩きながら呪文を唱える点で、歌いながら踊ることと身体行為に変わりはありません。特に呪文を唱えることが身体と一体化するためには腹から声を出す、つまり丹田との接続が重要にならざるをえないわけで、天地と一体とか根源の気とかそういった教理的な思想を支えるのはこうした身体感覚が先行しているからで、そもそもの発見の順序はその逆ではないだろうと思います(再発見されるときはそのかぎりではないかもしれませんが)。
また道教儀礼の所作は、演劇(京劇など?)の影響があり、演劇と武術はまた関係が深い、ということを考えると、やはり身体は一つ、という原則はなかなか無視できないように思います。そこを踏まえた上で、多様性に注目していくということではないかと。なお、手の振りはしばしば会話の替わりとしてメッセージを伝えるものとして機能しても、それは本質的には踊りには属さないのでしょう。

追記(8/10):茨城大学の真柳先生の学生さんの卒論で、中国の禹步について論じたものがありました。大平洋一「禹歩の技法と思想」*3です。深澤さんの議論に欠けていた論点も示されており、中国の禹步に関する議論としてはより包括的なものになっています。上述した儀礼空間的な発想がないのが残念であることを除けば、おおむね賛成なのですが、龍蛇神としての禹を本来の神格とみるなら、禹步はむしろ五禽戯などのように動物の動作をかたどったもの、つまり蛇が地面を這いずる動作を表現したものとみた方がおもしろくないでしょうか?それが禹が儒教的聖人化していく中で、動物の動作を人間の動作、足を引きずる形象に再解釈された、と。

*1:http://blog.goo.ne.jp/khojo0761/e/6f97e52594e3ff0e1028f4daa7aed1e6

*2:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20100718/p1

*3:http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/98ohira.htm