Under the hazymoon

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雲の心で敵に接し、水の体で打ち破る。

行雲流水といえば、だいたい日国にあるよう「ただよう雲と流れる水。他の力にさからわないで、滞りなく動く自然のゆうゆうとした姿。自然のまま、なりゆきにまかせて行動するさまなどをたとえていう。」といった意味ですが、馬貴派ではここにも武術の秘訣を見出すのでした。この意味をそのまま中国武術的に理解すれば化勁とかそんなところに落ち着くでしょうが、馬貴派の場合はかなり違う。
まずそもそも行雲と流水をいったん二つに切り分けるんです。行雲は心のありよう、一点に集中することなく、かといってとどまることもなく、しかし泰然自若とした精神を意味します。流水は体のありよう、力をどこかに偏らせず、部分部分が途切れることなく、連綿と流れるように動く身体を意味します。この両者が一体となった状態、それが行雲流水の示す境地というのですね。
で、その状態こそが武術において相手と対するとき最高の状態なのだそうです。棒や刀で襲われてもかわしようはあるが、水で襲われて防ぐことができるだろうか、と李先生は語ります。
穿掌、つまり抜き手の練習で、しばしば先生は穿掌は蛇のようにすばやくと言われます。そうか、上善は水の如し、柔よく剛を制すというように、相手の隙に流れ込むように手が進んでいくということか。。。一瞬そう思った自分がいました。
が、実際に李先生が見せてくれたお手本は、むしろ剛よく柔を断つ、の方でした。水は水でも鉄砲水です。どんな障害もすべて飲み込み押し流す水でした。蛇かとも思ったら龍でした。
もっともあれかこれかではなく、あれもこれもと考えるべきなのでしょう。水はすり抜けもすれば押し流しもする。蛇と龍は相変化する。どちらかに固着して練習せず、ひとつながりのものとして練習せんといかんのだろうな、そう思った次第です。