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nomurahideto's blog

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中国哲学で“自分探し”をするとカルトっぽくなるのは何故か?

きちんと統計をとったわけでもなく、ただ目の前の事例を見ていてのことですが、どうも中国哲学、まあこの場合は儒教方面、で、“自分探し”をしている人々が、どうにもカルトっぽく見えるのは何故なんでしょうか。
翻ってみるに、僕の母校の某大学には西洋哲学、インド哲学、中国哲学の三哲が学科として独立しており、僕自身学生の頃から一定数で普通の社会人になれない人たちがいたものでした。西洋哲学の4割は思い悩んで家にひきこもり、インド哲学の4割はインドに旅立って戻ってこなくなり、中国哲学の4割は中国にはまってそのままになって、卒業できない。なんてこと、仲間と自嘲気味に話しながら酒飲んだり麻雀したりしてたもんでした。いや僕もそのひとりですが。もちろん4割も卒業しなかったら経営上の問題になるので、これはネタでしかありません。ただ言い得て妙なところはあるなと思っていました。
そもそも“哲学”なんてものに引っかかる段階で、思いっきり“自分探し”してるわけです。しかし、それはちょっとモラトリアムをこじらせたようなもんで、よく見かける光景といえなくもありません。ところが最近の中国哲学で“自分探し”をしている人たちの言動は、どうも一般的に言われるような“自分探し”とどうも様子が違う。
僕自身、“中国哲学”に思い入れがあって、哲学研究じゃなくって哲学そのものをしたいんだ、なんてのを今でもけっこう本気で思うところもあるイタい人間ですが、しかし今、中国哲学の実践みたいなことを主張している人たちに対して、非常に大きな違和感があります。端的にいえば、彼らの言動には、自己啓発セミナーめいた、カルトっぽい雰囲気があるんですね。
どうしてなのか。その大きな原因は、教授陣から率先して“自分探し”を推奨しているような状況にあるように思われます。学部だけでなく大学院においてさえです。彼らの日常の言動を民族誌的に叙述すればすぐにでも分かってもらえると思うのですが、まあそれは今のところはやめておきましょう。しかし、そんなことをしなくても、関係者の論文を並べて見ると、何が起きているのかは察しがつくんですね。こちらは公刊されてるんで、マジで言説分析とかしたらよいのかもしれません。
もちろん、師承関係があからさまな先行研究しか引いてなかったり、自分の意見に都合の良い他分野の研究を参照するだけだったり、そもそも先行研究をまったく参照せずに自分の思いのたけを述べていたり、といった論文が生産されている状況は、端的にダメな研究といっていいでしょう。ただそういうことはあちこちで起こっているし、大学をまたいでグループが形成されているので、そういう研究もあるよね的予定調和な評価も可能でしょう。
しかし問題なのは、その語り口にあります。彼らの文章では一様に、上述のような先行研究にバイアスをかける態度に、儒教万歳、孟子万歳、王陽明万歳、彼らの思想を「正しく」理解することが現代必要とされているのだ、という主張が重なっています。
哲学を通じた“自分探し”は既存の哲学を否定していく孤独な戦いになることがしばしばです(そしてたいてい、何度も自分の考えてることをすでに考えていた先人を見つけ打ちのめさるのを繰り返したり)。同じことは中国哲学でも可能だ、というよりそれをしないと中国“哲学”を敢えて名乗る意味はないだろうと、僕なんかは考えています。
しかし、もしその孤独な戦いにおいて、述べて作らず的な、答えは先人がすべて用意してくれてたよ的な、伝統に則ったかのような経学訓詁みたいなことをしたらどうなるでしょうか。それはもう教祖を崇める信者の態度でしかないでしょう。正しさの判断基準を他者に預けているんですから。
しかもここには何重もの詐術が存在しています。なぜなら、そこで主張されていることは、自分の内心の正義にこそ従うべきであるという陽明学性善説であるにも関わらず、古典を「正しく」読み取るという絶対的な外部評価基準をおき、それを教師や研究者という立場から上目線で他者に主張することで自らの特権性を確保しつつ隠蔽し、受け取り手には自分で自分自身の善なる心を選び取ったかのように思わせるのですから。ここが自己啓発セミナーめいたカルトっぽさの源泉ではないでしょうか。
もちろん宗教はいけないというような主張をする気はもうとうありません。というより、大学という場、大学院という場、学術研究という場において、そうした宗教活動を当人たちが研究であると信じて行っているのは、近代的な人文学の発展を顧みるにむしろ先祖返りをしているのではないかと思うのです。科学や学術の衣をまとうことによって、近代社会の一員としての地位を得ようとした前近代の学者や宗教者の活動が、現代において再演されているかのようです。
こうした事態は、たまたま身近に変な先生と生徒がいるから起きているだけのことなのでしょうか。それともそもそも中国学の業界に広く見られる傾向なのでしょうか。あるいは人文学そのものにそういう傾向が起こりうるシステムがあるのでしょうか。同時代の、それも自分も他人事でなくそこに含まれる、状況を思想史的に論ずること、浅学非才ながら取り組んでいきたいと思っています。