Under the hazymoon

http://researchmap.jp/nomurahideto/

型練習の先にあるもの

型練習といっても、馬貴派八卦掌では動作に習熟することを目的として練習してはいません。基礎鍛錬である走圏や単換掌の目的は、姿勢を正すことにより身体を強くすることだ、と李先生は言われます。現代風にいえば肉体改造です。
走圏にしろ、単換掌にしろ、実際には武術のわざとして機能するように考えられています。走圏は少し変化すれば穿掌を打つ動作になり、単換掌は様々な攻撃の動作へ変化します。もっともそうした個々の具体的な攻撃方法を想定して、走圏や単換掌を練習してはいけないとされます。原理、という言葉を李先生は多用されます。最近は、技術ではなく能力を身につけるのだ、と繰り返し話されます。ようするに、走圏や単換掌の練習を通じて、動ける戦える身体を作ることを目指せ、ということなのでしょう。野生動物が突きや蹴りの練習をするか?といった問いを格闘マンガか何かで読んだことがあります。そういうことなのでしょう。もっとも、野生動物は戦い、というか狩りの練習を子供の頃から遊びとして行っていますけども。
どんな時どんな場合でも決して破ってはならないもの、個別の規則を超えたもの、そうした原理的なものを“規矩”と呼ぶのだそうです。正しい姿勢、中正を守ることが武術に限らずあらゆる動作における規矩なのだと。これは中国哲学というか、中国文化の基層的な思考にあるものですね。どんな内容かに関わらずバランスを取ることが重要というメタ的な志向です。
日常生活や運動習慣からバランスの崩れた姿勢が癖になっているため、走圏や単換掌によって、“本来”のバランスのとれた姿勢、“自然”な状態を回復する、それが練習の目的となります。幼子の歩き方や姿勢に学べ、と李先生は繰り返します。休んだり眠ったりしているときの背筋を、歩いたり動いたりするときにも維持せよ、と。この人工的に自然な状態を作り出す、意識的に無意識な動きを実戦するといった、矛盾するような考え方は道の思想の真骨頂とも言えるものでしょう。
さて、繰り返し練習を続けて、走圏や単換掌で中正を維持した動きができるようになったら、それで練習は完成されたことになるのでしょうか。そうではない、ここからが本当の練習だ、というのが、先日の李先生のお話でした。走圏と単換掌は永遠に完成することはない。初心者であろうと上級者であろうと、常に練習し続けれなければならない。それは何故か。李先生は次のように話されました。

毎日毎日練習を繰り返しているうちに、とても調子がよい日があったりする。理由は全く分からない。それまでと同じように練習しているのに、いきなりものすごくよく動けて、心身ともに充実した状態になったりすることがある。それが次の日にはまた元に戻る。練習を繰り返しているうちに、調子のよい日が訪れる間隔が短くなる。さらに練習を重ねていくうちに、毎日充実感を得られるようになる。もっと練習をしていくと、それまで2時間練習してようやく充実していたのが、ものの十数分で充実するようになる。そしてついには、構えた瞬間に気力が充実して動けるようになる。これは正しい姿勢によって、身体の内側が変化してきたことによる。身体が一つにつながれば、気血のめぐりがよくなる。背筋が伸びていれば、精神が高揚する。練習を重ねていくことで身体が変化していけば、同じ動作で得られる感覚も異なり、新たな経験となる。変化を感じ取るため、走圏と単換掌を日々穏やかに練習するのだ。

では、こうした次の段階に進むための、具体的な練習の要点はどこにあるのか。李先生は「一気呵成」という言葉で説明されました。姿勢や動きが正しくても、動作が分割されてばらばらな状態ではいけない。一歩、一動作を一呼吸で行うこと、それが身体をつなげ、気血の流れのなめらかさを生み、身体を変えていくのだそうです。姿勢に十分注意を払った上で、余力があれば呼吸にも気をつけるようにと、歩法と呼吸の対応関係を先日教わったのですが、これもまた次の段階の練習なのでしょう。

追記(10/26):