Under the hazymoon

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最初期の丹田資料:後漢・荀悦『申鑒』巻三俗嫌より

長沢規矩也編『和刻本諸子大成』第三巻(汲古書院、1975)所収本を底本とた。

*現代語訳にあたって底本の訓点を参考にしたが、適宜修正した。

 

ある人が問う。「性を養うとは?」。答え。「性を養うとは、中和を把握して、それを守って生きるだけだ。親を愛し、德を愛し、力を愛を愛し、心を愛することを、惜しむという。(気は)そうしなければめぐらないし、それが過ぎると安定しない。だから君子は気を節度をもってめぐらせ、滞留させたり混乱させたりして病気になってはいけない。だから喜怒哀樂思慮は必ずそ中和を得ることが、心を養うことになる。寒暖虚盈消息は必ずその中和を得ることが、体を養うことになる。気を上手に治めることは、禹の治水を参考にする。かの導引蓄氣や歷藏内視は、やり過ぎると中和を失い、ちょうどよければ病気を治せる。どれも性を養う聖なる術ではない。


或問曰。有養性乎。曰。養性秉中和,守之以生而已。愛親、愛德、愛力、愛神、之謂嗇。否則不宣、過則不澹。故君子節宣其氣、勿使有所壅閉滯底、昏亂百度則生疾。故喜怒哀樂思慮必得其中、所以養神也。寒暄虛盈消息必得其中、所以養體也。善治氣者、由禹之治水也。若夫導引蓄氣,歷藏內視,過則失中,可以治疾,皆非養性之聖術也。

 

縮ませるのは伸びているから、蓄えるのは空だから、内を向くのは外を向いているからだ。気はよくめぐらせた方がよいのに押しとどめたり、体は調和をとれた方がよいのに好き勝手に振る舞ったり、心は平穏である方がよいのに無理に押さえつけたりすると、必ず中和を失う。上手に性を養うのに、どんな場合も使える術はない。その中和を得るだけなのだ。臍から二寸(5cm弱)の場所を「関」(後代の丹田)という。「関」というのは呼吸した気を蓄えて、体中に届けているからだ。だから呼吸が深いと「関」で息をし、浅いと息が上がり、脈が速くなり、心がうわつき、肩で息をするようになる。


夫屈者以乎申也、蓄者以乎虛也、内者以乎外也。氣宜宣而遏之、體宜調而矯之、神宜平而抑之、必有失和者矣。夫善養性者無常術、得其和而已矣。鄰臍二寸謂之關、關者所以關藏呼吸之氣、以稟授四體也。故氣長者以關息、氣短者其息稍升、其脈稍促、其神稍越、至於以肩。息而氣舒、其神稍專、至於以關息而氣衍矣。

 

だから道とは、常に気を「関」まで届かせることで、これを要術という。およそ陽気は養い、陰気は殺す。柔和で喜ぶ者は、その気が陽である。だから性を養うとは、陽を尊び陰を斥けることだ。陽極まれば高く上がり、陰極まれば凝り固まる。高く上がれば後悔するし、凝り固まれば悪いことが起きる。万物は自ら春の状態にはなれないので、天が春になるの待って子を生む。人はそうではなく、ただ自ら春の状態をなして子を生む。


故道者、常致氣於關、是謂要術。凡陽氣生養、陰氣消殺、和喜之徒、其氣陽也。故養性者、崇其陽而絀其陰。陽極則亢、陰極則凝。亢則有悔、凝則有凶。夫物不能為春、故候天春而生。人則不然、存吾春而已矣。

 

薬は治療のためで、病気を治すことができるが、病気でなければ使わない方がよい。肉は主食に及ばない。薬はなおのことだ。熱があるのを冷やすのは、熱があると気が滞るからで、それが陰薬のはたらきである。ちょうどよければ、害とならない。自分の気が安定している(のに薬を使う)と、必ず傷つく。針灸も同じである。だから性を養う者は、たくさん服用しない。ただ節度をもって使うだけである。


藥者療也、所以治疾也、無疾則勿藥可也。肉不勝食氣、況於藥乎。寒斯熱、熱則致滯、陰藥之用也。唯適其宜、則不為害、若己氣平也、則必有傷。唯鍼火亦如之。故養性者、不多服也。唯在乎節之而已矣。