Under the hazymoon

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気功における手の役割

先日初めて本格的な気功を体験しました。とにかく生来鈍感な人間で、“気”を感じたりするなんて、ちょっとできないだろうと思っていました。霊感とかないし。ところが、思ったよりもできて、もちろん何ができたのかという問題はあるにしろ、自分でも驚きました。八卦掌をそこそこ長く続けてきたからでしょうか。
もっとも馬貴派八卦掌の練習では、いわゆる行気や運気の類は練習しません。もちろん身体の中を“気”がめぐったり、“気”が蓄積されたりするという考えは大前提としてあるけれど、具体的な瞑想法のようなものは行っていません。鍛錬の結果として“気”がめぐり充満するだけなのです。ようするに筋(すじ)を伸ばしリラックスするという身体操作は要求するけど、“気”が体内を動くことをイメージしたりしないし、そのように感じることを推奨するわけでもないのです。
しかし今回、指示に従って“気”を動かそうとすると、まさにそのような感覚を得ることができたわけです。どうしてできたのでしょうか。もっとも大きな要素は、両手を使って“気”の運行のシミュレーションをしたことではないかと思います。これは実際に体験してみて実感できたことです。気功というと、坐禅や站樁のように、ただ静かにじっとして、体内の“気”を感じたりするものだと考えていたのですが、どうもいきなりそんなことをするのは難易度が高いようで、その前段階の方法が用意されていたわけです。その一つが両手を使うことです。
例えば、“気”が体内を下に向かって移動させるときは、両手を下に動かす。“気”を体の内から外に向かって拡散させるときは、両手を左右に広げたり前後に伸ばしたりする。両手を動かすことによって“気”を誘導するというわけです。しかし見方を変えれば、このようにも言えます。おそらく両手の動く感覚は誰でも感じ取るのは容易いことでしょう。その感覚を体内に転写して、体内で“気”が動くような感覚として同時進行で再現します。錯覚のようなものと言ってもよいかもしれません。それを繰り返していると、手を動かさなくても、体内の感覚だけを再現できるようになっていきます。おおできた!
八卦掌の練習ともあまり矛盾が出ないように説明するとなると、このようなものになるでしょうか。ようするに“気”に物理的に固有の実体があるかどうかは問題にしないという立場です。現象の総体としては確かに“気”は実存しているわけですし。
気功におけるもう一つの重要な要素は、視線による誘導ですが、これはまた稿を改めて。