Under the hazymoon

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漢々学々

ctext.orgのwikiパートは素晴らしいけども

先日もctext.orgのセミナーに参加した。漢籍の全文テキストデータベースで、これほどの大規模なものをwiki のように編集可能な形で公開したものは確かに初めて。中研院の漢籍全文資料庫と比較して、コラボの点での優位性を誇るのもわからなくない。 とはいえ…

最初期の丹田資料:後漢・荀悦『申鑒』巻三俗嫌より

*長沢規矩也編『和刻本諸子大成』第三巻(汲古書院、1975)所収本を底本とた。 *現代語訳にあたって底本の訓点を参考にしたが、適宜修正した。 ある人が問う。「性を養うとは?」。答え。「性を養うとは、中和を把握して、それを守って生きるだけだ。親を…

陳攖寧「最上乗天仙修煉法」現代語訳

*『陳攖寧仙学精要』上、宗教文化出版社、2008年、156〜158頁 *11年前に自分で訳してた。。。 http://lingxue.g.hatena.ne.jp/nomurahideto/20060629/p1 最上乗天仙修煉法 陳攖寧 この法は真心を主とし、真炁を用とし、三宝を基とする。外三宝(耳目口)は…

朱熹静坐集説注釈稿(2)

東洋大学所蔵円了文庫の静坐集説*1を底本とした。九州大学所蔵のもの*2と同じものと思われる。 訓読は底本に従いつつも適宜補った。 川幡太一氏の漢文訓読JavaScript*3により原文と訓読文を一括生成した。 佐藤直方全集や他の版本との対校は改めて。柏木恒彦…

朱熹静坐集説注釈稿(1)

東洋大学所蔵円了文庫の静坐集説*1を底本とした。九州大学所蔵のもの*2と同じものと思われる。 訓読は底本に従いつつも適宜補った。 川幡太一氏の漢文訓読JavaScript*3により原文と訓読文を一括生成した。 佐藤直方全集や他の版本との対校は改めて。柏木恒彦…

郭沫若と静坐(2):スピノザ、荘子、王陽明

当時を振り返って書かれた自伝の中で、郭沫若は静坐の実践は伝統的に荘子から王陽明へと受け継がれてきたものだという認識を示しながら、それがスピノザの汎神論と同内容であることを述べています。……私はある時期王陽明の崇拜者だったことがあった。それは…

井上哲次郎は静坐をしたか?(1)

井上哲次郎『人格と修養』(廣文堂書店、1915年*1)は若者に対して修養の重要性を説いた本ですが、では具体的にどのような技法によれば修養を成し遂げられると考えていたかといえば、どうも抽象的な議論に終始し、所謂“修身”のごとき精神論が議論の中心にな…

安岡正篤と静坐(1):柳田誠二郎との関係

安岡正篤の思想の実践性のうち、身体技法の方面に関して、その具体的な内容は不勉強にして知らず、その著作や関連資料から探る試みをようやく始めたところです。とりあえず『安岡正篤とその弟子』に収録されている「朋友・安岡正篤を偲ぶ」と題された座談会…

郭沫若と静坐(1):岡山での生活

郭沫若が日本留学中、1915(大正4)年10月に父母に送った手紙では、岡山に移って一ヶ月後の生活を報告し、「私は岡山に来てから毎日、起居飲食を規則正しくしております。」として、一日の生活を次のように綴っています。 五時半起床。 五時半から六時半まで…

書芸術の起源はどのように語られるべきか

学習院大学での「からだの文化2」*1で、夏目さんが著書の『書って何だろう?』*2を引かれつつ、木簡の行政文書に書芸術の起源をみる話をされていました。 行政文書と書芸術の関係は、冨谷至『文書行政の漢帝国 -木簡・竹簡の時代-』*3の第2編第二章「書体…

中国哲学で“自分探し”をするとカルトっぽくなるのは何故か?

きちんと統計をとったわけでもなく、ただ目の前の事例を見ていてのことですが、どうも中国哲学、まあこの場合は儒教方面、で、“自分探し”をしている人々が、どうにもカルトっぽく見えるのは何故なんでしょうか。 翻ってみるに、僕の母校の某大学には西洋哲学…

共生と養生

この3月末には現在の仕事が職場ごとなくなり、高学歴ワーキングプアまっしぐらなのですが、それはともかくとして、この5年近くお世話になったおかげで、自分の研究自体も発展させることができました。感謝。で、昨年12月に総括シンポがあって、5年分の研…

御湯神楽といしきりん

道教学会の翌日、若手研究者の集いタオの会にて、石切神社で御湯神楽*1を見学に行きました。写真に撮りたかったんですが、そんな雰囲気でなかったので、普通に見学。素足にわらじの巫女さんに萌える。雨の日もあの格好でやるなら、かなりエロティックではな…

花いちもんめと歩法

環境/文化研究会での深澤さんの禹步に関する報告*1はとても参考になりました。地鎮め=結界としての禹步に先行するものとして、歩くこと自体の聖化としての禹步を考えるというのは、確かにおもしろい。もっとも前者は歩くことで世界を変えるわけで、人なら…

身体からみた全真教と正一教

内丹による自利行中心の全真教のような丹鼎派と呪符による利他行中心の正一教のような符籙派とは、宗教的な行為としては全く異なることをやっているようにみえます。しかし、白玉蟾が内丹と雷法を接続したり、陳致虚が度人経を利他行の読誦に重ねて内丹を説…

からだの文化―修行と身体像―2日目

昨日*1の、マンガ・仏教・中国武術引き続き、二日目の今日は、ピアノ・丹田呼吸・コンテンポラリーダンスとますますカオスに♪ 大地さんの「日本近代のピアノ教育における身体イメージ」は19世紀に現実に存在したピアノの指強化器具や特訓的奏法についての報…

からだの文化―修行と身体像―1日目

学習院大学で開催された研究集会*1に報告者として参加してきました。 夏目さんの「マンガにおける修行身体イメージの伝承」では、戦前の武道物が戦後に野球物にずれ込んだ経緯、そして現代の格闘マンガとその時代性までを概観する幅広いものでした。バトル物…

儒教研究が前提とすべきいくつかのこと

中国哲学分野の場合、儒教研究にまま見受けられる傾向に、文献の外の世界を想定することなく論を立てる悪い癖があります。もっとも経学と文献学の方法論が混淆した中国古典学の徒には抜きがたくある習いですので、儒教研究に限らないわけですが、儒教研究に…

ソーシャルブレインズ、ミラーニューロン、モーションキャプチャ

といっても三題噺というわけではなく、藤井直敬『ソーシャルブレインズ入門――って何だろう (講談社現代新書)』*1を読んでいて、この3点に興味をもったということです。 まずミラーニューロンについて。僕自身、看取り稽古のような伝統的な学びのあり方や自…

夏目房之介『書って何だろう?』

ご恵贈いただきました。 書って何だろう?作者: 夏目房之介出版社/メーカー: 二玄社発売日: 2010/03メディア: 単行本 クリック: 1回この商品を含むブログ (4件) を見る 中国古典専門なのに、書道どころか字を書くことすら昔は大嫌いだったんですね(^_^;) それ…

「愛をうたい、日々を慈しむ」白楽天

川合康三『白楽天−官と隠のはざまで』(岩波新書)*1を読みました。天漢日乗さんの書評*2を読んで、そういやこないだ空海といっしょに戦ってたよなとか思いつつ*3、4月からの事情もあり、手にとってみたんですが、ちょうど自分が書いたばかりの論文「儒教の…

「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?−「孝」の思想、性善説、アーキテクチャ−」補遺3

共生思想研究年報2009掲載の拙論の補遺。 爆笑問題の太田光さんが『爆問学問』で「専門家こそ今の世の中をもっといいもんだと言ってくれ」というようなことを何度か言われてますが、今回の論考はまさにそういう立場で書きました。で、身近なところを気にして…

「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?−「孝」の思想、性善説、アーキテクチャ−」補遺1

共生思想研究年報2009掲載の拙論の補遺。 儒教ルサンチマン説*1の位置づけは本来行うべきだったのに完全スルーしてしまいました。論考の方では、儒教そのものではなく儒教を現在において語る場合の態度の問題に力点を置いたことから、儒教を否定的に論ずる言…

「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?−「孝」の思想、性善説、アーキテクチャ−」補遺2

共生思想研究年報2009掲載の拙論の補遺。 取り上げた研究者のうち、その弟子の言説も含めてカルト的雰囲気がすばらしい件については論考内で言及しようか悩んだものの、そもそも師匠の説を縮小再生産して悦に入ってる弟子なんてのはめずらしくもないので、彼…

無意識の発見による作者の特権の収奪

北條さんの報告を聞いて、作家論なんて文学研究か?と思ってたこと自体、真っ当な近代の病であったことに気づかせてもらってから、文学研究を史伝とみることで近代の修行論として位置づけ直す必要あるなと考えていました。 例えば私小説を近代人の史伝とみれ…

知識と体験の関係性

修行論での課題の一つに、言語化が難しいため記録されづらい身体の領域にどうアプローチするかという問題があります。僕自身は、八卦掌の学習というフィールドワークを通じて、思想史的な研究へのフィードバックをいろいろと試行錯誤して、その成果があるよ…

内包された「辺境」としてのタオイズム

内田樹『日本辺境論』*1を読んで、最初に浮かんだ言葉は「上に政策あれば下に対策あり」でした。 はるか遠方に「世界の中心」を擬して、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまずは確保し、その一方で、その劣位を逆手…

近代以前のキャラクター論は成立するか?

キャラクター論と修行論(や文字論)の接続を考える上で、近代以前/以後の線引きをどうするかというのは前提として考えておく必要がある呼び作業です。 例えば、「中国文学研究でメディアミックスなんて言う若手はタコ!」(大意)という慶応の千田さんの批…

もう一つの人文情報学的文字学の可能性?

ユリイカの白川静特集*1で、おもしろかったもう一つの記事は一海知義×石川九楊の対談「触知する文字宇宙 漢字・書・詩学」です。白川静が甲骨文字の研究にあたってトレーシングペーパーを甲骨の上にかぶせてペンでがりがり移すとき、その筆触によって似たよ…

見えないものを見るための占い

ユリイカの白川静特集*1で、もろさんが「“絶対に当たる占い”の場合、さらに一ひねりが加わっている。甲骨文字を使った占いでは、望ましい結果が出るまで何度も占いを繰り返したり、結果に応じて事前に行われた占いを改竄したり、結果が出た後に問いや占いを…