Under the hazymoon

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教学システムとしてのいきなり最終回

 最初に習う熊形走圏がいちばん難しい、という言葉は、ようするに完成形を最初に提示して、それをまねることで学んでいくという伝統芸能や武道の教学システムと同じなのか、と今さら気づきました。
 

 例えば、日本舞踊を習うときは、手や足の動きを細かく分割して習うのではなく、いきなり一つの踊りを通し稽古で最初から最後まで行い、その過程で先生が生徒の動作を修正していくといったように教えるそうです*1。一つ踊りができたら、次の踊りを習うけれども、習う順番は固定的なものではなく、個別の踊りの間に難易度の差異はないことになる。この場合、一つの踊りの中で全体像が最初から提示されているということが大切なのでしょう。
 また柳生新陰流では、一番最初に習う「一刀両断」は実は最高に難しく、「こうあるべきだ」という最終目標を、初心者のうちから教えるのだそうです*2。ここではある型から次の型へと一応の修練過程か組まれていますが、しかし難易度ということで言えばスタート地点がゴール地点になっていて、わざ全体が一つのまとまりとしてあり、かつ最初に完成形が示されていると解してよいでしょう。
 
 ところで前者について論じている生田氏は、日本舞踊の教学システムについて、その原因を学習上の合理性には求めず、学習者の社会性の涵養に重きが置かれるからだ、といった解釈をされています。他方、後者について論じている清水氏は、それを生命の創造性に根ざす根源的な方法である、といった解釈をされています。もちのろん、僕は清水氏の解釈と同じ立場に立ちます。日本舞踊の教え方も、「わざ」を身につける上でそのやり方が実は合理的なのである、とそう考えた方がよろしくないか、と思う次第です。仮に当事者が人間性を高めるためにこういう教え方をしているの言っていたとしても*3、それは問題ではありません。

*1:asin:4130130641:detail

*2:asin:4121013336:detail

*3:生田氏は日本舞踊を長年習っているので実践の立場にも立っているわけですが、うーん、社会学的アプローチのせいかしらん。