Under the hazymoon

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神は心より出でて

 霊学研で、前回に引き続き陳攖寧「黄庭經講義」の翻訳を発表。またまた間に合わずぐだぐだに。アップしたのは口頭で訳した部分も落とし込みました*1
 僕は存神と言ったとき、身体神を瞑想するものだと考えていたのですが、それは存思であって、存神は異なるというのが陳攖寧の立場でした。ではこの神は一体何かといえば、臓器としての心臓が有する機能、身体の各部の動作を管轄する働き、のことだそうです。
 

 どうやら陳攖寧は、心臓が血液を身体各部に送り込む働きをなしているという解剖学的事実から、血液によって神が身体に偏在していると考え、心を落ち着ける=心臓の働きをゆるやかにすることで、身体に散開している神を発信元の心臓に呼び戻し、それを丹田に降下させるという手順を想定していたようです。ここで陳攖寧が依拠している解剖学的事実が、伝統的な中医的知によるものか西洋医学的知によるものか、吟味する必要がありますが、生理的な実感をベースに内丹の修行過程を構築していることに間違いはないわけで、たいへん興味深いです。だって、内丹説の完成とされる『悟真篇』をめぐっては、そこでなされているのはわりかし形而上学的な議論であるという説が支配的だったりして、そうした議論にものすごく違和感があったんですよね。実践の香りがしないなと思って。陳攖寧のこうした議論を読むと、先祖返りしたんでなければ、もとよりこうであったのだと考えた方がいいわけで、断然しっくりくるんです。
 陳攖寧の場合、西洋医学的知=科学的知がより妄想力を喚起したんではないかと個人的には考えています。エーテルや催眠術などと同じで、西洋医学によって伝統的身体観を補強or伝統として再創造した一例になるんでは、なるとおもしろいな、なってくれーと思った次第。うーん、調べることが増えた。
 もっともここで書かれていることが存神の全てではないそうで、実際、心臓の機能としての神であるなら何故身体外に存することができるのか書かれてはいないわけで、まだまだ奥は深そうです。

*1:http://lingxue.g.hatena.ne.jp/nomurahideto/20070531/p1