Under the hazymoon

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キャラクターにプロットは実装されるのか?

「キャラクター・身体・コミュニティ〜第2回人文情報学シンポジウム」*1が開催されるので、不義理をしといて申し訳ないけど、この内容で参加せねば後悔するなあと思って予定の調整をしようとしているところ、キャラクター論で気になるところを自分の準備として以下まとめてみます。
要点は、一般キャラクター論において、プロット/コンテクストはキャラクターの属性として実装されるのか、ということになります。
 

キャラ×プロット、オタク×ギャル

さて、たまたま「映画評論家緊張日記」でケータイ小説についての本田透さんの分析*2への賛意が示されていて*3

一言でまとめてしまえば、ケータイ小説は現代の女子中・高生のあいだで民間説話のように消費されている、ということになるだろう。これはたいへん卓見で、とりわけ

レイプや妊娠や不治の病といった不幸イベントを堪え忍んだ結果、「真実の愛」を見つければ全ての不幸なイベントがキャンセルされ、「幸福」になれるという信仰。それが、リアル系ケータイ小説を読む少女たちの心の中に存在する。だからこそ、「神様」とか「天使」とかいう宗教的概念が連発されるのだ。

という分析には蒙が啓かれた。本田透は「恋愛資本主義」の支配を訴えていたわけだが、どうとうそれは宗教にまでいたってしまったというわけだ。「自分探し」がひとつの宗教と化している……というと、なんだか香山リカみたいだな。

「自分探し」の宗教化ってのは最近のスピ語りがまさにそうだよなと思ってたわけです。そしたらちょうど、「さて次の企画は」*4経由で知った、「「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー - 荻上式BLOG」*5で「ケータイ小説とプロットの過剰」という一節があっておもしろく読みました。以下長くなるけど、適宜省略して引用します。

宇野:……例えばライトノベルというのも文体はない。変わりにキャラクターが肥大しているわけです。ケータイ小説の場合は、肥大している要素はプロットなんです。

荻上:うん。まったく同じことを考えていました。プロットの過剰さですね。

宇野:逆に言えば、プロットしかない。ちょっと遠回りな話になりますが、オタクの人がなぜ空気が読めないかというと、東さんとか伊藤剛さんの話って究極的にはキャラクター理論なんですよ。キャラクターというのは設定がすべてで、「○○した」ではなく、「○○である」がすべて。トラウマを負っていて、何が好きで、どういう喋り方をしてと。そしてキャラクターというのはどんな物語に登場しても丹下左膳丹下左膳ハルヒハルヒとして揺るがないんです。ところが実際の人間のコミュニケーションって、例えばキレンジャーはデブで陽気な人間がなりやすいというイメージが世間一般にありますが、デブで陽気な5人だけ、例えば伊集院光、内山君、ホンジャマカ石塚、松村邦弘くんとかの中に新しくデブで陽気なキャラを入れたら、誰が黄色になるかはわからないわけです。あるグループにいけば、クールで知的な青レンジャーかもしれない、あるグループにいけばリーダー気質の赤レンジャーになるかもしれない。これが実際のコミュニケーションなんです。僕は引越しが多かったので、実感していることですが。

荻上:進学したり、会社員になったりしても、実感することですね。

宇野:でもこれって超常識で、いまさらいうようなことでもないですよね。でもオタクをオタクをたらしめている部分ってここだと僕は考えている。つまりオタクは、キャラクターが物語から独立して存在するということを、この3次元の世界でも信じている人たちなんです。だから彼らが浮くのは、自分の中で出来ているキャラクターを、あらゆる場面で通用させようとするから浮いてしまう。

荻上:「真理」を信じている思想家や運動家にも当てはまりそうな話ですが、確かにギャルゲーって、例えばキャラクターだけでなく、ふとした描写に突如として「普遍」的な神や共同無意識、純愛のようなものが登場したりするからね。

宇野:ケータイ小説って、逆に言えばキャラクターが存在し得ない空間なんです。

荻上:キャラクターのデータベースの代わりに、プロットのデータベースがある。オタク文化とケータイ小説、そのある種の反応構造は近いものを感じているのだけれど、引き出されるものは大きく異なるのが面白い。

宇野:双子にして正反対という関係。その両者は、普遍的なものの置き方は異なっている。ケータイ小説は人間の外側にあり、ライトノベルは人間のキャラクターにあると。で、今の時代にケータイ小説が強くなるのはしごく当然のことで、島宇宙化時代には、キャラクターというのは棲み分け易いけれど通りづらい。

荻上:“カリスマ”もそう。

宇野:それは、さっきの『虐殺器官』と『ライフ』の話でもそうです。『虐殺器官』は問題を人間の「中」に、『ライフ』は人間の「間」にあると考えた。この島宇宙化時代をマクロに捉えると、強いのは後者だろうと思う。だから『恋空』も、あざといけれどいい話だとは思いました。

東×伊藤(攻め受けの×ではありません)のキャラのデータベースというのに対して、プロットのデータベースがあるのだ、というのは僕としてはすごく得心のいく議論です。現代においては、キャラの過剰、独立だけがあるのではなく、プロットの過剰、独立というのもまたあるのだと。
このキャラクターの不在かつプロットの過剰、ということで僕が連想したのは、バブルの頃の月9現象のようなぴあ的恋愛世界です。相手はいないけどクリスマスイブのための高級ホテルは予約する、みたいなのはまさにそうではないかと。そうなると、バブル→セカイ系→ケータイ小説と時代の尖端は移ってきたことになるのかなあ。
しかし、ではこれは現代に特有の事例かといえば、東さんのデータベース消費を初読したときに感じたように、状況はますます近代以前とそうは変わらないように思えてきます*6。例えば古典芸能を考えてみたとき、都市で恒常的に歌舞伎などを鑑賞できる場合、プロットは固定されていて、むしろ役者の個性、キャラにファンがつくわけです。しかし地方でたまに鑑賞される場合、村の祭りとか、むしろおもしろい話、プロットにファンがつくでしょう。あるいは禅の悟りなんかも同じで、悟るきっかけが、竹の鳴る音だったりなぐられたりと様々な種類が生み出される一方で、ある一つの悟りの類型にこだわって繰り返し問題にしていったりもしてと、プロットとキャラとどちらでこだわるかで修行のスタイルが変わってくるということが言えるかもしれません。
また、近代以前はキャラとプロットが不可分だったかといえば、そんなことはなく、道教での呂祖信仰なんて、あちこちでキャラ萌えしてるもんだし、俺/あたしだけの呂祖様の物語がいっぱい量産されてくわけで。ある領域では思いっきり地続きなんじゃないかと。僕が最近フィールドにしている武術なんかでも……。
とまあ、そんなことを妄想していると、

荻上:……『恋空』などは象徴的ですが、「このプロット、いるのか?」というようなくだりが多くある。歯医者がストーカー化するシーンとかはね。優との絆を描くため、あるいは「実話」を演出するためだったら、省略しようと思えば出来るプロットはある。でもそうはしていない。

宇野:キャラクターの過剰か、プロットの過剰かの違いですよね。キャラクターをプロットに置き換えるだけで、ケータイ小説の大体は説明できるし、そこに結構本質的な問題もあるというのが僕の見方ですね。

荻上:そしてどちらにも「崇高なもの」が突如登場するんですね。『恋空』であれば、「みんなの幸せ」とか。その一致も面白い。

宇野:キャラクター小説はオタク的なレイプファンタジーへ、ケータイ小説はKY的な暴力へつながっていく。当然、比喩ですけどね。

とやはりスピ語りが一つのキモだという論点がここでも指摘されています。キャラにしろプロットにしろそれが過剰になっていく場というのは、歴史的に宗教や芸術、そして市場のような境界的な領域ではしばしば見られてきたことで、スピリチュアルな傾向を持ってしまうというのも無理からぬことということになるのかもしれません。

プロット萌えはキャラに還元されるか

で、ここで言われているプロットをコンテクストに置き換えると、ほとんどこの問題は一般キャラクター論の課題になるんではと思うわけです。キャラクターの話から考えていくと、プロット/コンテクストはキャラクターの属性に過ぎない、としてすべてをキャラクターに還元することはできるのかいな、という設問になるのでしょうか。
キャラとプロットに関する上述の話がおもしろいのは、現実に主体となっているオーディエンスが異なっているところです。もちろん普通はキャラもプロットも両方楽しめるわけです。しかしそれぞれが単独で過剰に増殖していったとき、現象としては宇野さんが攻撃的に指摘しているように明らかに異なるグループで受容されていくわけです。そうなるとそれは原理的には異なるものではないか、プロットをキャラの属性に過ぎないものとして設定することは現実の別の側面を思いっきり切り落としてしまうのではないか、そう思えます。
コスプレにしても、キャラのコスプレでない、メガネ属性みたいな類、『ビジョメガネ*7や『メガネ男子』*8なんかはキャラ萌えなのかプロット萌えなのか、考え直してみるにむしろ後者ではないのかな〜と。
きちんと議論を追っかけてないので、どうなってるのか分かってないんですが、CHISEでは素性の束にコンテクストまで含まれるんでしたっけ。人文情報学がおもしろいのは、こうした問題を「実装」の問題として工学的な処理を考えることにあると思ってます。どう実装できるかというのは社会をどう見た方がうまくいくかという実践的な問題につながっていくので、おもしろいです。

追記(3/5):

ちょうどid:moroさんところで、id:ogataさんと規格をめぐってコンテクストの議論になりつつあります*9id:ogataさんのところで進行中の文字の束縛*10ということでいうと、道教では雲篆のように神が使っていた「真」の文字とか出てきちゃったり、霊媒が神仙を降ろしたときに砂に何やらよく分からないモノが書かれて、それが人間の言葉に翻訳されちゃったり、とかなりゆるいというか統一されがたい傾向にあって、それって仏教と比べて組織化されていく駆動力のない原因の一つだったりするのかなあとか何とか。雲篆は時代を経ることで文字として記録されたけど、現代でも降りてくる神仙たちの言葉は文字としては規範化されないんじゃなかろうか。と書いてて、何か石川九楊さんの方向に向かっていくような気がしてきました。うーんと、規格についてはそっちの世界へいっちゃいかんと思ってるのに、自分の興味を書くと思いっ切りそっちに逸脱してしまう。

追記(3/5):

マクガフィンは?

*1:http://kura.hanazono.ac.jp/kanji/20080322.html

*2:[asin:4797344024:detail]

*3:http://garth.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_a31c.html

*4:http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20080228/1204123003

*5:http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20080224/p2

*6:稲葉振一郎さんがこのへんはしっかり論じられてます。
[asin:4757101805:detail]

*7:[asin:4789727262:detail][asin:4789728730:detail][asin:4789731391:detail]

*8:[asin:4757211740:detail]

*9:http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080303/1204552046

*10:http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080302/p1
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080303/p1