Under the hazymoon

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社会還元としての卒論公開

どことは言わないですが、卒業論文を必修としているにも関わらず、専攻分野の知識を社会で活かしてほしいからとかなんとか、別途卒業試験を課すことにしたところがあるようです。卒論の口頭試験の次の日に実施しているようですが、愚策の極みですね。まずそもそも、

  • 単位にならない試験を学生に課す意味が分からない

単位になってない上に、卒論とはもちろん、一般の授業ともまったく関係ないのだから、学生には受ける義務がないわけです。最近の学生は素直に受けてくれるのかもしれませんが、もしすっとぼけて受けなかった場合、どうするんでしょうね。無理矢理受けさせる法的な根拠ないでしょうに。もし強要してきた場合、アカハラとして訴えることもできそうな(^_^;)
しかもです。

  • 必修である卒業論文を無価値とみなしているようなものでは?

制度化するとしても、もし卒論がないところなら、その必要性はあるでしょう。が、卒論は依然として必修のようです。
卒業論文は、教員の指導のもと4年間の学びの集大成として、1年をかけて執筆することになっています。実際に学生がどの程度手間をかけているかはともかくですが、定期的に主査が指導すれば時間と労力は十二分にかかります。僕の卒業した大学では通常授業4単位に対して卒論6単位でした。制度としても卒論とは多大な労力を要するものとされているわけです。
それをたった1回の卒業試験と比較するわけです。しかもその卒業試験は、落ちたとしても、その日のうちに受かるまで再試を何度も行って“くれる”そうです。1年かけてする研究と最悪事前準備なしでもどうにかなる試験とを同じはかりにかけるのは、自分できちんと指導していないことを無意識のうちに表明しているようなもんだと思うんですけど。あるいは卒論指導なんかめんどくさくてやりたくないという本音が出てるのか。
もし本気で学生に大学4年間で学んだことを活かして欲しいと思うのなら、卒業論文への比重をより重くする方がよっぽど意義があると思います。学生にしたって、対外的には、卒論でこういう内容でこれだけ書いたと言える方が、こういう内容の試験にパスしたというより、よっぽどええでしょう。

自分が卒論指導とかする立場にないんで気楽に言っちゃいますが、卒論を学生のためのもの、教育のためのものとするだけなのはもったいない。むしろ社会還元のためのもの、学界にも資するものと位置付けた方がよくないでしょうか。
学術研究に対する社会還元の要求がよく言われるようになってます。何の役に立つかと言われると答えるのが難しくなりますが、還元、社会に対するアウトプット、という点では人文学でもじゅうぶんにできる、というかこれまでやってきました。それが学生が書く卒業論文ではないかと思うのです。

  • 卒業論文をネットで公開して、CCライセンスをつけて、誰でも利用できるようにする。

ネットで公開、というのがポイントです。まず教育的な観点だけでも、公開を前提とするメリットは大きいです。学生自身にとっては、ネットで自分の卒業論文を誰でも読めるとなると、変なものは書けなくなるでしょう。コピペをしたりして適当なものをでっちあげてしまったら、後々恥をかくのは自分です。指導教員にしても変なものをスルーした指導不足が問われることになるので、教員学生双方が真剣にやるようになるでしょう。
またそうして執筆された卒業論文が公開されて広く利用できるようになれば、それは立派な社会還元となるでしょう。適当に書き飛ばされたのではない情報がネットで無料で利用できるというのは非常に重要です。それに伝統的な知を受け継いで次代に引き継いだ証し(の第一歩が卒論)なわけで、むしろそれこそが人文学の社会貢献の正道であると胸を張って言うべきではないでしょうか。

もし実際に卒論を公開する場合には、人文工学的観点からアプローチすると、研究にも資するものになると思います。例えば以下のようなネット公開を前提とした論文のフォーマットにもとづいた卒論執筆を学生にしてもらいます。

  • 文章上の書式とデータ上の情報タグを一致させたテンプレートを準備する
  • INBUDSのようなキーワードと概要を書くことを必須とし、それをメタデータとしてデータベースに使う
  • 論文本体の公開形式は検索可能なPDFにする
    • 紙できれいに印刷できるようにする。
    • オンラインサービスと連動して本にできればなおよい。
  • 引用文献リストから該当資料を検索できるようにする。
    • 「あしあと」機能をつけて、どれだけ見てもらえたか、どれだけ引用されたかが分かるようにする。

実はこれ、卒論のためのものではなくて、学術論文の公開フォーマットとして想定できるものなんです。つまり、修論や紀要論文まで同じアーキテクチャにのせて、その末端に卒論を置き、できれば更にその下に一般サイトもおくわけです。
卒論レベルでは学術的な価値はない、と切り捨てるのにも合理性はあります。しかし、ページランクなどで重みを変えるなどの措置をとって、コアな学術研究から通俗的な研究までをロングテールにつなげて世界に対して開いていく方が、傾きつつある斜陽産業にとって必要だというだけでなく、人文学の本来的なありように近くはないかと思うのです。