Under the hazymoon

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できない理由よりできる理由を考える

今日はおまけの練習日でした。初級指導員が僕だけだったので、李先生の話された内容に注釈を加えたりしながら、普通に走圏・単換掌・探掌の練習をしました。武術なので対人を想定しながらの動きに構造上なっているとはいえ、僕自身は養生からのアプローチを行っているので、解説もそちらよりになりがちです。武闘派の方々には申し訳ないかぎりですが、日曜教室の方でその欲求不満を解消していただければと思います(^_^;)
前にも書きましたが、僕としてはできるだけ一人一人の方に李先生にどう直されたかを伺いつつ、それを李先生から示された原理的な話に回収していって、全体的な理解を助けるというスタンスで関与していくつもりです。自分の中にミニ李先生を作る(via夏目さん)、そのお手伝いになれば。
まあ何せ武術経験は浅いですから加味できるほどの経験がないわけで。そのぶん予断のないものにはなっていると思います。思想的な部分は拡張していますが、それは中国哲学の伝統に寄り添う方向なので、これもまた実践上邪魔になるような知識でもありませんし。

ところで今日の練習でも思ったことなんですが、できない理由よりもできる理由を考えるというのは練習の上で重要かもしれません。というのも馬貴派の練習においては最初から理想の型を実現することを要求されて練習します。例えば腰を回すこと一つとっても、段階的にここまでねじれたら、次はここまでとかそういう指示はなく、いきなりクライマックスです。もちろん、できない。しかしこのできない状態に挑み続けることで、相変わらずできないままなんだけど、身体自体はだんたん変化していって、あるとき気がつけばだいぶできるようになっている、そういう練習のかたちになっています。
過度の負荷をかけることで身体が鍛えられるため、という単純な理解を僕なんかはしてるわけですが、その場合、一歩進めて、理想の型が人間本来の姿であるという思考に立てば、個々の要求は統一的に実現されなくても部分部分はすでに現在の自分の中にビルトインされていて、そもそもそういう苦労なしに僕たちは実現しているはずだ、そう考えると鍛えるべきポイントが限定できるかなと思うんです。例えば個々の要求に関して日常生活の中で実現できるシチュエーションを考えてみて、走圏のときはできないけどこのときはできるというのを見つけ出す。その上でできる部分を走圏に落とし込んでいくわけです。含胸の要求などで椅子に座ってリラックスしてみせたりすることをすぐれて実戦的に練習に反映させる、ということで、おそらく僕たちはそうしたことを無意識のうちに行っているはずなんですね。それを言語化、可視化していけば、伝統的な身体観を延長した近代的トレーニング論になったりしないかなあと思うのですが。