Under the hazymoon

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見えないものを見るための占い

ユリイカの白川静特集*1で、もろさんが「“絶対に当たる占い”の場合、さらに一ひねりが加わっている。甲骨文字を使った占いでは、望ましい結果が出るまで何度も占いを繰り返したり、結果に応じて事前に行われた占いを改竄したり、結果が出た後に問いや占いを書き記したりするなど、現代人から見れば茶番とも言えるようなことを行っていた」と、占いの事後的解釈の原則性について述べている点に、たぶん落合敦思さん*2の議論を援用したのだと思うけど、で、落合さんはもっと踏み込んで、こうした甲骨占いの性格から実は古代王権はきわめて政治的に構築されたものであって、信仰は表面的なまやかしでしかないようなことを書かれてて、おいおいと思ったわけですが、どうにも違和感を感じるんですね。
というのも、事後的に解釈されるから、そこに宗教性がないというのは端的に占いの本質をつかみそこねてると思うのです。もろさんの議論自体からは離れていきますが、キャラの問題としてこれまでのエントリー*3と関係するので以下いくつか補足的な論点を示します。

まず占いには結果の吉凶を知るためのものと過程の吉凶を知るためのものという二つの型がそもそもあって、後者の占いを前者の立場でみれば絶対当たる占いになってしまうだけだという点に気をつける必要があると思います。
僕の田舎では元旦に三社参りを行います。どこに参るかは人によって違うけど、ともかく神社を三つ回って、おみくじも三回引きます。引いたおみくじの内容がよくないときはその場で木の枝に結ぶので、だいたい良い結果しか手元には残りません。凶なんてほぼ出ないのでだいたい中吉や小吉を結びます。母から末は大に転じるから末吉は結ばなくてもよいと聞いたことがあり、今にして思えばまさしく易の陰陽転換の理論を自然と身につけていたわけですが、ポイントはおみくじという神様まかせの占いであっても、人間側で結果をごく平然と操作するという点です。
これはおみくじを引くプロセスは日本よりもはるかに手間をかけてる台湾でも同様です。願い事をしておみくじを引く前に、それが神様に聞き届けられたかどうかをまず占います。結果聞き届けられなかったと出た場合は、もう一度最初から願い事をするプロセスを繰り返します。そして聞き届けられたと分かった時点で、おみくじを引いてその結果を参考にします。つまり必ず願い事は神様に受理されるけど、それが現実にはどのように達成されるかという未来の傾向と対策をおみくじで教えてもらうというわけです。
甲骨文字による占いも構造はこれと同じでしょう。たんにはるか古代から現在にいたるまで人間は神様に対して他の人間たちにしかけるのと同様に時にだまし時におどし時にへつらっていただけで、神様を信仰することとその場で政治的に振る舞うことはまるで矛盾しないわけです。
むしろ占いについて注目すべきは、観相学などまでを視野に入れれば、目に見えないものを見るわざであるという点こそが重要でしょう。未来であれ性格であれ、それは目に見えるものとして存在しているものではありません。占いは普通には見えないものを見せてくれるものであり、であればこそ、そこで見えたものは「真実」であることがそもそも望まれる。見えないものによって見えているものが変化していく、その兆しをつかのま手にすることができると信じて占いは行われる。
ちなみに過去もまた未来と同様に目に見えないものですから、歴史がその起源において占いと双子であるのはむしろ必然となるのかもしれません。

*1:[asin:4791702034:detail]

*2:[asin:4062880180:detail]

*3:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20100112/p1
http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20100107/p1