Under the hazymoon

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近代以前のキャラクター論は成立するか?

キャラクター論と修行論(や文字論)の接続を考える上で、近代以前/以後の線引きをどうするかというのは前提として考えておく必要がある呼び作業です。
例えば、「中国文学研究でメディアミックスなんて言う若手はタコ!」(大意)という慶応の千田さんの批判は、

そもそも著作権概念が無い時代にあって、話題のネタが多くの人々によって、様々なメディアで何度も再話されるのは、詩経の昔から普遍的に見られる現象であり、そこに一つのコンテンツを複数メディアを通じて売り込む戦略的意図など存在しないのは自明である。戦略が存在しない以上、メディアミックスであるはずがない。

と、メディアミックスの術語としての本義に照らしたつっこみで的を射たものでしょうけど、別に誤用でもいいんじゃないかと思うわけです。

というのも、メディアミックスとかが話題になる前にこうした現象それ自体に論ずる価値があるとして注目されていたんでしょうか。そこが気になるわけで。いや俺は注目してたとかいう声がどこかからか聞こえてきそうな気もしますが(^_^;)、仮に中国学の業界内部では知られていても、明らかにそうしたメディアミックスに関わる議論をしている人たちは「昔から普遍的に見られる現象」だとはどうも思ってない*1
例えば、メディアミックスの典型であるキャラクタービジネスについて論じた小田切博『キャラクターとは何か』*2では、近代以前の、ビジネスと無関係にそういう現象が起こっていたことは問題としていません。しかしおもしろいことに、同書ではビジネス的要素を議論の上で不可欠としながらも肝心のその点での議論に大きな穴がある*3、つまりこうした現象を論じるとき、人はむしろビジネス的側面を見ずに文化を論じたがる傾向が抜きがたくあるということを逆説的に示しているともいえます。
そうした議論が多くなされていることに対し、単に不勉強という批判もできるでしょうけど、むしろ近代的ビジネスのない世界から継続している側面があるからこその結果だと考えてはどうか。メディアミックスなりキャラクタービジネスなりの慨念からビジネスやマーケティングといった要素を取り除き、そうした近代的ビジネスのない部分こそが本義であると、事後的に辞書的定義を更新してはどうかと思うのです。そうすることで、今度は逆にじゃあ近代以前においてのビジネス的要素はどの程度支配的であったのかといったように議論がひっくり返ったりと、キャラクターやコンテンツといった考え方を導入することで、いろんな分野の研究がよりつながっていって楽しいような気がするのですが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20080621/p1

*2:[asin:4480065318:detail]

*3:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100121#p1
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100105#p2