Under the hazymoon

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「愛をうたい、日々を慈しむ」白楽天

川合康三『白楽天−官と隠のはざまで』(岩波新書*1を読みました。天漢日乗さんの書評*2を読んで、そういやこないだ空海といっしょに戦ってたよなとか思いつつ*3、4月からの事情もあり、手にとってみたんですが、ちょうど自分が書いたばかりの論文「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?−「孝」の思想、性善説アーキテクチャ−」でシャウトした、時論を語ろうとしている古典研究者に対する不満*4と軌を一にするもので、ほらみろーと勝手に納得しつつ読んでしまいました。
帯に引いてある「はじめに」をここにも再掲します(p.6)。

文学が古来、悲しみの感情に満ちあふれていたことは、白楽天も語っている。それに対して白楽天はよろこびをうたう文学を自分の文学として高らかに掲げる。生きていることのよろこび、日々の暮らしのなかに覚える幸福感、それをこそ自分はうたおう、と。……これまで詩にうたわれることがなかった日常生活のなかで得られるささやかな楽しみ、それを生きていることのよろこびとして味わい、言葉に写し取ったのが、白楽天の文学である。

そのよろこびは「暖かな布団にくるまって朝寝を楽しんだり」「日だまりのなかで心地よくまどろんだり」といったささやかなものだったりするわけです。それがいい。そして白楽天の文学論はというと、

現実をそのまま写し出した文学というものはありえない。表現には伝統的様式とか表現者の主体的選択とかが伴わざるをえない。……不幸の絶えることのない身と世ではあるが、なおもそのなかに生きることのよろこびを見つけ、幸福感に満ちた文学世界を繰り広げてみせる、そこにこそ白楽天の文学の意味がある。悲哀の情感も文学が与えてくれる人間の美しい感情の一つとしてわたしたちは共感を覚える。しかし悲愁をうたう文学だけが文学なのではない。よころびも人間の感情である以上、よろこびの文学も文学としての意義をもちうる……(pp.208-209)

「中国の文学が本質的に生きることを肯定し、人間を肯定するものであること」を主張しているのだそうです。
中国の哲学もまったく同じだ、と僕は思います。『論語』をそのように読むことは難しくないし、朱子学陽明学もそのように読むことができるはず、なんですけどね。もっとも文学は作品として切り離してもいいでしょうけど、哲学の場合は切り離すことは難しいでしょう。他人に要求することを自分ができてないというんじゃ話にならんですから。
ともあれ、儒教をそのように読むためには、思想史的な手続きをけっこう検討しなくてはいけないので、僕自身難渋しているところですが、川合先生の名文に勇気づけられました。

*1:[asin:4004312280:detail]

*2:http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2010/03/1228-15-6f4a.html

*3:[asin:4198931194:detail][asin:4198931208:detail][asin:4198931348:detail][asin:4198931356:detail]

*4:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20100330/p2