nomurahideto's blog

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極私的走圏学習プロセス論その2

 http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20070221/p1 の続きです。
 一般的に考えて、意識的に身体を動かすと、通常はその意識した箇所に力が入るものではないかと思うわけです。あるいは逆に負荷がかかるところに注意が向く、といったように*1。してみると、走圏における、腰に意識を置きつつ、しかし力は足に入るという要求は、どうにも困難です。足に力を入れたら足に意識が向かうのが自然ではないですか?
 

 それが当初の僕の疑問でした。実際、「含胸亀背下端腰。上鬆下緊大力在腿」と言われるよう、大きな力は足にあるのであって、腰ではないし、また腰に意識を、という問題もここでは語られていないわけです。しかし練習を重ね、何度も指導を受けるうちに、自分で意識していないのに、老師に姿勢を修正されるだけで足に大きな力がかかるようになってきました。エウレカ!そう、足に力を入れるのではなく、足に力が入ってしまうのです。
 ようするに、この拳訣の前半部分と後半部分では文脈が違うのだということです。前半部分では具体的な身法(身体の姿勢)についての要求が書かれています。しかし、後半は具体的な姿勢の要求ではありません。これを力の配分に関する意識の要求だと読むこともできます。そう読むと足に力を入れなきゃ、となってしまいます。しかし、前半部分の要求には足に関するものがありません。足に関する要求としては最初に「抓地」や「平起平落」を習います。何故意識の要求を言って、姿勢の要求を言わないのでしょうか。正しい姿勢に意識をのせることが大前提だとすれば、何とも整合的でありません。ということは、後半は要求を書いているのではない、ということです。つまり、こういう読み方が望ましいのではないでしょうか。
 「含胸亀背」という上半身の要求と「下端腰」という下半身の要求を満たせば、上半身がゆるやかで下半身がひきしまって大きな力が足にあらわれる、と。つまり前半の句の要求は全身の力を足に集めるためのもので、それを満たすと後半の句のような状態が実現される。逆に言えば、後半の句のような状態になるのが正しい前半の句の実践である、ということではないかと。前半の句における要求の中心は腰です。なので要求を満たすべく腰を意識するわけですが、その成果が出力されるのは足になるというわけなのです。
 そのような理解にもとづくと、走圏の学習プロセスにおいて、まず歩法、足の運びから習うことは得心がいきます。武術である以上、重点はどのようにして力を出すか、にあるわけですが、しかしそのためには出力を受け止めるだけのハードの準備が必要です。そこで、まず足幅や歩幅、「抓地」や「平起平落」など歩き方の基礎を身につけます。こうした動作は日常生活ではまず行いませんので、足はそうした動作をできるようにできてません。これをまず覚える。目をつぶって片足で立とうとするとき、バランスを保つのは三半規管ですが、片足だけで立てる筋力すらなければ、バランスを保つ以前にこけてしまう、そういうことだと思います。
 それでその歩法を最低限できるようになったら、ここから本番として、「含胸亀背下端腰」の要求を満たせるよう身体の姿勢を修正していきます。この修正が加わることで、全身の力が足に集中するようになっていきます。そのときに、最初に習った歩法で身体を支えるわけです。もちろんこのへんは段階を踏んで非可逆的に移行したりはせず、それぞれの要求の満たし具合の出来不出来によって、全体のバランスにばらつきが生じるでしょうから、あるときは足をより注意して練習したり、あるときには胸により注意して練習したり、あるときはまた足にもどって、と必要に応じてあちこちを行きつ戻りつ繰り返し練習していくことになります。どこにより問題があり、どこをより練習するべきかは、個人個人の資質、身体のゆがみや生活習慣によって、ある程度共通化類型化はできるでしょうけど、かなりばらばらになるはずです。その最適解を見つけて修正を手助けするのが指導ということになると思います。
 さて、身体の力が足にきちんと送り込まれるようになると、足の歩法についてはもう一段階上があります。単に足を前にすすめるのではなく、蹴り出すように力強くすすめるような練習をしていきます。これにはどんな意味があるのでしょう。李老師は相手の脛を蹴り折るかのごとくずばっと出しますし、実際そういう使い方もするそうですが、それを真に受けて自分もずばっと出してはいかんわけです。ここは本義に立ち戻って考えてみなくてはいけないと思います。愚考するに、これはスピードではなく、力を足先にまで込めることに重点があるのでしょう。地面で身体を支えてる側の足に力がぐっと入るのは当然ですが、もう片方の前に進むべく宙に浮かせた足にも同様に力がぐっと入ってなくてはいけない、ということではないでしょうか。
 どういうことかといえば、これはやはり移動しないということなのだと思います。走圏での身体への要求は丹田への気の集中、内丹をもたらすものに等しいものです。その要求は本来静止してこそ最大の効果を発揮するわけです。一般に站春などが身法の基礎におかれるのはそういうことです。にもかかわらず走圏は動くわけですが、動く際に、静止しているときと全く同じ身体の負荷がかかるように動けば、これは静止している状態と変わりません。つまり浮かせた足にも支える足と同じだけの力がかかり全体の姿勢もゆるがないようにすることで、静止している際と等しい安定感をもち、力を発揮できるようになる、ということではないかと思います。理想としては、というわけですが。
 このように八卦掌の走圏においては、本来静止した状態で実現される内丹の成果(身体の気の充実、とでも今は言っておきましょうか)を、武術実践に用いるために、歩行しながらも可能とするための工夫がなされており、その工夫は走圏の学習プロセスと各種要求の中に見出すことができる、という仮説を立てられるのではないかと思います。

*1:それともこういう理解は通俗医学的知識で、きちんとしたスポーツ医学では違うのかしらん。要調査?