Under the hazymoon

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部活042:「何を学ぶか」と「どう学ぶか」

今日は前回のおさらいで単換掌変化の「抹眉」と「野馬撞槽」をやりました。
新しく始めた人から動作が分からなくて立ちつくすことがあるので、もっと基礎をやってほしいという話がありました。前からこうした意見はあったし、週一でそういった日を設定するように運営を変えていくのですが、しかしこれにはいくつかのそう単純ではない重要な問題が含まれています。

まず単に運営上の問題として、常に新しい人が入ってくる状況で、そのたびごとに基礎だけばかりしていてはいつまでたっても先に進まないということがあります。何しろ武術の学習と考えた場合、組み手のような実戦的な練習や武器の練習まで進んでないような状況で、実態としてはいろいろやっているように見えてまだ相当の初期段階だったりするわけで。もちろん、師範代と胸を張れるぐらいの上級者がいればまだ同じ会場で分けることができるでしょうけど、そのためには結局全体として教学プロセスが先に進むしかない、わけです。
もちろん運営上の問題といったって、習う側の要望に合わせてくれるべきじゃないの?という考え方もまた当然といえば当然です。しかしここで、何を習おうとしているのか、ということも考えてみなければならないでしょう。例えば、端的に分かりやすい、一つ一つの動作がはっきり固定されているようなものでないと習うのが難しいというような意見もあるかもしれません。しかし中国武術の歴史を考えた場合、そういうものはいわゆる制定拳と呼ばれるような伝統的なものを近代的に腑分けして再構成したものとして一方に存在しているんですね。で、そうではない、本当に伝統的なものを習えるというのが、この教室の最大の売り、なんですね。そしてそうした伝統的なものを学ぶときには、どう学ぶかが決定的に重要なんです。というか実際のころ、学び方だけを近代的なものに変更しても大丈夫かどうか答えがまだないというのが現状です*1。学び方を変えると中身も変わってしまう可能性がある。そうじゃない可能性も、もちろんあるわけですが、つまりは学び方は極力変えない方が安全なんですね。
そうなると、学ぶ側が意識を変えなくてはならないでしょう、というのが僕の基本的な立場になります。分かりやすさを求めて苛立ちを覚えるよりも、分からないことを楽しんではどうでしょう、というものです。異文化なり、歴史なり、古典なり、そうした今の自分から一見遠く離れたものに触れる場合は、その方がよいと僕は思います。やはり現代語をただ読むだけより、がんばって直接漢文を読んだ方がそこにはより豊かな学びがある、というわけ。
もちろんそうなると、そんなにたくさんの人に受け入れられるようなものにはならないでしょう。しかし、大量に安く売ることができないものが商品として流通しない、ということにはならない。料理なら、高級フレンチをハンバーガーのように簡単に食べれないしたくさん売れないからといって、問題がある、改善しなくては、とは誰も言わないと思うんですけども。本物のフレンチに比べればハンバーガーなんか何の価値もない、あるいはお高くとまった贅沢料理なんかなくってもいい、とどちらかを切り捨てるのは愚かしい話です。どちらも選択できる、どちらも楽しめる余地が残されている状況こそが、もっとも幸せじゃあないでしょうか。フレンチもB級グルメも、クラシックもポップスも、ワープロも書道も、それぞれに選んでそれぞれに幸せがある。
もちろんだからといって投げっぱなしのままではいかんのも確かです。しかしその対応としては、教え方を変えるよう配慮するよりも、何を学ぶかだけでなくどう学ぶかが大切なのだということを言葉を尽くして説明する方が、僕にはより望ましい方法だと思います。まあ古典研究者の端くれなので、変えるということにやはりためらいがあるんですね。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20090523/p2