Under the hazymoon

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速度を落とし、足からまねる

馬貴派の教え方に違和感(よく分からない、丁寧に教えないなど)を感じるのはなぜかという理論的な考察*1はそれとして、じゃあ具体的にはどう練習すればよいのか、といえば、ポイントは次の二つに絞られると思います。

  • 李先生のお手本よりゆっくり行うこと
  • 最初は手の動きでなく足の動きを正しく行うこと

理想的な身体像を設定してそこに向かって身体を練り上げていく、というのが馬貴派の基本的な練習に対する考え方です。つまり、動作そのものが習得の対象となっていない。つまり、李先生がお手本を見せてくれるとき、僕たちはあのような動作をできるよう努力するのではなく、あのような動作が生み出される身体になるよう努力しなければいけない、ということなのです。いや、歩く冷蔵庫になるのはイヤ〜とかそういう現実のことではなく、理念として、のお話ですぜ。
つまり動作はこうみなくてはいけないのだと思います。

きちんとした姿勢を維持した状態で動けるからこそ、あのような連続して素早い動作になるのだ、と。だから姿勢をほっておいて目に見える素早さをおいかけてもダメなんですね。李先生と同じように姿勢を維持したまま、つまり走圏で念入りに教わる要求をできるかぎり念頭において動こうとしてみれば、まったく素早く動くことなどできないはずなんです。しかしそれで正しいのです。
じゃあ何で、今の僕たちにできるような速さまで落としてくれないのかといえば、一つには、単に動作や手の位置だけでなく、全体のバランスや動作の連続性も学ぶべき重要なことなので、それには相応の速さで動いてないと表現できないということがその理由です。実際、李先生が本気で動けばあんなもんじゃないので、おそらく現在の速度は最下限なのだと思います。もう一つの理由は、李先生が見せてくれているのは理想的身体(に近い状態)とその発露であって、簡単に再現できないからこそ、それを目に焼き付けて練習するお手本足りうるということが、より根源的な理由ではないかと思います。
では具体的に、そのお手本からどう学びとっていけばよいのか。基本はやはり、走圏の要求の順番に従い、

  1. (身体の中正の維持)
  2. 扣擺歩
  3. 手の動き

でしょうか。姿勢の維持は前提条件として、常に崩さないように意識しなくてはなりません。その上で、まず足の動き、扣擺歩の展開を先に覚えます。どういう順序と方向で行っているか。ただこのとき、あくまで理想的に扣擺歩は常になされているという前提が大切です。例えば扣歩の足が一見して斜め四十五度とか中途半端な角度になっていたとしても、それをそのまままねようとせず、とりたてて指示のない限り必ず90度にまげるとか。擺歩のときも基本は両足が平行になるように広げます。なぜ見た目のままにしないかといえば、それは上に述べた理想的身体に関わる問題で、あくまで追究するのは理想的な状態であるのに、動作の結果として若干ぶれが自然に生じてしまうとしても、それは許容しましょう、という展開でぶれを意図しないことが身体の動作を律する上で重要ではないかと思います。
そして、扣擺歩による移動にあわせて身体の回転を行い、その回転に手の動きが付随する。もちろん意識しないと手は動かないんですが、あくまで身体の回転によって自然に動いた体で行うと。極力手は動かさない、というのが基本です。ですので、李先生によく手の位置や動かし方を直されると思いますが、ほとんどの場合は、手そのものでなくそこにつながる身体の修正なんですね。例えば両手を揃うように直されるとき、本当にゆがんでいるのは手ではなく肩であったりするわけで、だから肩から動かして両手を揃えるようにするというように。
あくまで僕個人の見解ですが、李先生のこれまでの教え方から敷衍するとこういう考え方になるかと思います。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20090604/p1