Under the hazymoon

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気をどう訳すか?

術語に関して最大の問題はというと、気をどう定義し訳すかでしょうか。とはいえあまりに中核的かつ根源的概念だし、現代日本語における気の用法とそんな変わらないので、そのまま使っても差し支えないんですが。
ただその場合、オカルト方面に引っ張られやすいという問題があるんですね。気は実存的には存在しているといってよいし、クオリアと絡めて論じたことも何度かあります

李先生も、気は確かに存在するのだ、と言われます。しかし存在するといっても、物質として実体的に存在している、と神秘な方に考えなければいけない必要はどこにもないんです。計測してどうすんの?と思います。いやまあ近代以降一貫してそういう試みはなされ続けてきたし、そういう方面の研究をしてはいるんですが(^_^;) 
気を感じる、といったような表現は実は記述が逆転しているんですね。個々の現象から取り出しうるような抽象的な気というのは、理念上のものでしかない。
実際のところ、気という言葉を全く使わずにすっとばすのが訳し方としてはもっとも適当だと前々から思っていました。つまり、下半身に気を充実させて、と言われるとき、そこで実際に起きている事態は、下半身に充実を感じる、ということにつきる。つまりただ感じるとだけ言えばすんでしまう。そこに個別の事例を具体的にその都度付け加えればよいわけです。もちろん毎度毎度個別具体的に言うのはめんどうなので、術語として気を採用して抽象度を上げた方が表現としては楽なんですが、しかしそうすると、気だけが一人歩きしちゃうというわけなんです。
オカルト慣れしている人にしてみれば、そっちの成分ゼロの説明だったとしてもそういう感覚を実体験すればどっちにしろついてくるでしょう。だけど、ちょっとオカルト遠慮したいという人にしてみれば、オカルト成分が薄めでも説明に入ってくると明らかに逆効果じゃないかと思うんですよね。