Under the hazymoon

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「気」は「金」のように実在する

現象として気が実在するということと、物質として気が存在するということはイコールではないのだが、しばしば混同されています。中国古典を研究していると、気という言葉を使わずにすませることは非常に困難ですが、とりわけ道教なんか研究していると気そのものを研究対象にしなくてはならないときもあります。そういうとき、当時の人は信じていたので信じることにして議論を進める場合が大半です(あるいはマジに信じてる方もいるか分かりませんが、そもそもそこは問題とされてない感じ)。
僕自身はクオリアとして気を考えるのが、議論としても実態としても筋がいいように思っていますが、比喩として相応しい例としてお金があるかなーと思います。お金はこの世に実在していますし、対応する物質もありますが、その物質そのものにお金性があるかどうかは問題とはなっていません。貨幣、紙幣、小切手、電子マネーとお金性が賦与されたモノの形態によって適用範囲が変化し、あらゆるところに行き渡っていく。気もまさにそうです。風水のような大地や大気をめぐる気も経絡のような人間の体内をめぐる気もそれが何であれ物理的に同じモノであることはありえません。
ただ可視/不可視を使い分けることによって、つまり目に見えるところでは異なるモノが目に見えないところでは同じモノとしてつながっているのだ、というレイヤーの違いにおいて、目に見えないところから陽炎のようにゆらめくモノとして気が認識されてきたというわけです。それはとりもなおさず現代社会においてお金が果たしている役割に近いのではないか、そういう新年の妄想をしてみました。