Under the hazymoon

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馬貴派拳訣の可能性と限界

 李老師とみなさんが楽しく歓談されている隣りのテーブルでは、悪だくみが進行していたのでした。と書くとまた問題があるか。というか李老師のMRI検査を勝手に推進する会の部会に期せずしてなったんですね。で、なかなか充実したブレーンストーミングになったので、以下メモ。
 

 その議題はというと、いろいろ他派についても詳しいTさんからの提案で、八卦掌の他派については拳訣が公刊されているわけだし、それらを洗い出して、馬貴派ではどうなのか李老師に伺ってみて、馬貴派の詳細な拳訣を作ってはどうか、というのがあったんですね。で、夏目さんはやや乗り気(たぶん考えられていたのはTさんの意図するものと違ったみたい)で、僕は否定的なのでした。
いやTさんの気持ちはすごく分かるところがあって、実際僕も同じようなことは考えていたんですね。このブログでも他派の拳訣を引っ張ってきて比べたりしてますから。しかし僕はそういったアプローチはあくまで学術研究として考えていたのです。
馬貴派の拳訣自体は、紙に書かれてなくても、練習の度に少しずつ李老師から教えていただいています。これをまとまったものにしてほしい、公刊して欲しいという欲求はあります。しかし僕としては、それは研究のためなのでした。公刊されたものがあれば他派に限らず道教の修行法との比較も同じレベルでやりやすいわけです。片方はフィールドワーク、片方は文献のみ、ではちと手続き上問題が。他派のフィールドノートとかあればええですけど。
 わざわざ他で教えていることをもってきて、僕らはどこに注意して習えばいいんでしょうか?と聞くと、そう聞いた段階で新たな教えを生み出す可能性、人類学のアポリアに陥るんじゃないかという懸念があるのです。僕自身としてはそんな危険を冒す必要はないと思うわけです。自分自身の実践として必要なことはすべて教えていただいているわけですから。それよりも単純に馬貴派で伝承されている拳訣を書き起こしてください、そうお願いするのでいいと思います。とはいえ、僕は研究者としてはそうした要望に李老師が応えてくれるとすごくうれしいですが、一実践者としては紙に書かれた拳訣自体は何がなんでも必要だというわけではないという立場です。毎回必要な分だけ教わってメモすればええわけですから。
 では何が必要か、ということなんですが。一般論としてある集団が大きくなってくると、どうしても指導者の下にさらに指導者を複数配置していかないと教えが伝達されにくくなってくるでしょう。しかし、指導者と同じレベルの副指導者が確保できるか、また指導内容の同一性を確保できるか、というとこれは無理な話であるとその昔から、それこそ孔子教団の頃から明らかなんですね。では直接師との一対一の教授関係が確保できない場合どうするか。教科書作りましょ、というのが基本的な解です。最善ではないが、次善でありえるし、それで十分といえる。しかし、問題はどのレベルまで教科書で規定するかということです。「含胸亀背下端腰」と拳訣を書いただけでよいのか。もちろんそれは教科書としてはちっと問題です。その口訣が指す意味について解説しなくてはいけません。あるいは他の口訣との関係性、どれが優先順位が高いとか、どの段階ではどれを重視する、とか。しかし、そんなシステマティックに行くものでしょうか?走圏の性格を考えるとき、それは難しいように思われます。走圏の要求はそもそも完全性を元に設定されているので、理想的には全ての要求が同時に満たされるしかあり得ないものになっています。その意味で実は優先順位というのは仮想的にしか存在しない。しばしば遠藤老師が言われるように、人によって抱える問題が違って、それによって重視するところが違うところから、その人それぞれの状況によってそのときの優先順位が流動的に定まっていくというものに思われます。それを固定的に記述することは可能でしょうか。
 その答えの可能性の一つが、もちろんこれも次善でしかないけれども、教えられたことに対して、学習者一人一人が自分の理解を明らかにし、それをそのまま記録しておく、ということです。前にも論じたバザール方式というやつです*1。精誠八卦会の教科書には実はすでにその片鱗が見え、巻末に各学習者の感想が記載されています。僕はこれを拡大して、教科書のようにテクストを限定するのではなく、ブログでもSNSでもいいんですが、テクストを拡散させていく方向に持って行ってはどうかと思うんですね。ロールモデルとしてあるのが禅の語録です。真実は言明できない、不立文字であるからこそ、各人のそれでも真実にたどりつこうとする試みをひたすら記述することで、後に続く者の道しるべでありながら、どの道を行くかは自分で考えて選べるようにしたわけです。つまり、ネットを使うことでテクストの蓄積と分析は格段に敷居が低くなったというだけで、こうした考え方自体は実は伝統的というわけです。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20060926/p1