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小さなデータベースの消滅

データベース消費を近代以前にも見いだせるのであれば、問題の本質は大きな物語の消滅ではなくて、小さなデータベースの消滅による大きなデータベースの登場にあるのではないでしょうか。そんなことを考えてみました。

もろさんも書いてるユリイカ2008年6月号「特集*マンガ批評の新展開」*1では、人文工学的観点からアカデミズムについての言葉をいろいろ考えてみたいと思いつつ、先にもろさんがかなり詳細に論じてくれてるので*2、とりあえず別の気になったことをメモしてみます。

東浩紀「オタク現象と日本のポストモダニティ」から気になったところを引用します。まずオタク第一世代によるヤマトの受容スタイルから、「物語消費とは、物語に意味がないゆえにそれにのめりこむ、という一種のシニシズムスノビズムと表裏一体」なものとして定義されます。ここでの意味のなさとは、社会的政治的な意味を持たないとされます。そしてデータベース消費は、オタク第三世代の受容スタイルで、「物語そのものにあまり感心を寄せ」ず、「物語以外の要素にも同じていどの感心を寄せ」るようになり、それが「萌え」という「キャラクターだけを見る感性」を中心とするのだそうです。「萌えに駆動されたオタク第三世代は、物語の全体を見るのではなく、あるキャラクターの類型、ある場面の類型、さらには、こういうキャラクターとこういうキャラクターがいて、こういうシチュエーションだったらこういう話が展開するはずだという物語展開の断片的な類型に注目」することで、個別の作品や作家ではなく、「「オタク的」な物語展開、「オタク的」なキャラクターの類型というものが大量に集まった、一種のデータベース」をそのよりどころし、「いわゆる大文字の社会とは異なった位相に存在する、別種の公共圏に生き」るようになったんだとか。こうした現代日本のサブカルチャーの動向をふまえた東さんの結論は「人間は、とりわけ近代の人間は、物語とか理想にだまされてじつにさまざまな間違いを犯してきた」のだから、「物語や理想に対して抵抗力を持もち、そういうものを信じない、データベースしか必要としない、というのはそれはそれで一つの知性だと思う」というものでした。

まず現代の動向ということでいえば、エヴァ以降にデータベース消費というスタイルが出てきたというのは、規模の問題ではないか、という疑問です。萌えデータベースとしてネットの登場とあわせてこれまでになく大きなデータベースが構築されたという点で、それまでと異なっている、つまりメディアの変化による量から質の変化として考えた方がエヴァ以前の状況と整合性があるのではないかということです。というもの萌えに駆動されないデータベース消費は厳然として存在していたからです。
その実例の一つは今でも書店で確認することができます。雑誌ファンロードのシュミの特集大事典という記事では毎回アニメやマンガの作品が取り上げられ、読者による作品上の登場人物など重要項目の執筆をまとめて事典の形に編集されているのですが、いかなる作品の特集においても必ず『北斗の拳』の登場人物「アミバ」の項目があるのがお約束になっています。そこでの「アミバ」は出自とする物語から切り離され「トップに立ちたいのに立てない」という属性のみで事典の項目としてのみ成立しているわけですから、データベース消費と呼ぶにふさわしい事例でしょう。

さらに指摘するべきは、古典研究の立場から東さんの議論に対する疑義としてまず挙げられるのが世代論への還元で、データベース消費ってポストモダン特有のものではなくって、近代にも近代以前にもずっと前からあったよ*3という論点でしょうか。大衆文化の世界、民間信仰や大衆芸能の事例を見ていけば、断片化された物語、物語から切り離されたキャラ、といったデータベース消費のスタイルはいくらでも見いだせるでしょう。僕の分野でいえば、教主や山下さんが研究されている、道教の民間信仰と『封神演義』にみられる神格の流通なんかは、まさに演劇や文学や彫刻(寺院に飾られる神像ですが)などメディアミックスな展開を経ているし、限定的な公共圏として機能していたといえるでしょう。大雑把な話をすれば、こうした大衆的な文化世界はデータベース消費が地域ごと時代ごとに様々に行われ、それらと平行して上部構造として道教や仏教などの宗教権力やさらにその上澄みとしての儒教倫理などが大きな物語として消費されていたのでしょう。こうした構造が最近になってあきらかになってきたのは、研究動向の変化が大きいのではないか、もとよりアカデミズムというもの自体上部構造の大きな物語なので、その底流のデータベース消費は問題として来なかったし、という研究者側の問題があるように思います。

このように、現代日本での先行事例、近代以前の文化の消費スタイルを見ていくと、データベースの属性、萌えかどうか、ということではなく、その規模、どれだけの人間に消費されるかどうかというのが重要なポイントではないかと思えるわけです。つまりインターネットの登場によって、それまで限定的なコミュニケーションの間でしか参照されなかったデータベース群が結合されていって、大きなデータベースができてしまった、というのが現代の状況ではないかと。そうなると(実際にそれが存在してるかどうかはさておき)問題は、これまでは大きな物語よる圧力を小さなデータベースによって変換することで適当に受容してきたのが、データベース自体が巨大化することでそこからすら圧殺されるという危険性ではないかと思ったりするのです。そのように考えると、近代以前から現代までをデータベース消費という概念で一貫して問題にすることができ、東さんの議論を拡張できるのではないかと思います。

ところで、萌えデータベース消費は本当に大きな物語の消失を前提としているのか、僕には大いに疑問があります。大野左紀子さん*4本田透さん*5の議論をみるにつけ、それこそ近代の発明である「純愛」、恋愛至上主義という物語に誰もが左右されているからこそ、萌えデータベースが要求され巨大化してきたのではないか、といったようなことを考えずにはいられません。つまりいまだ物語消費もデータベース消費と同様に平行して存在している点で、やっぱりプレもポストもモダンもあったもんじゃない、のではないかと。

*1:[asin:4791701798:detail]

*2:http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080529/p1
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080529/p2
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080529/p3
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080530/p1

*3:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20070303/p1

*4:[asin:4860620496:detail]

*5:[asin:4062759241:detail]