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井上哲次郎は静坐をしたか?(1)

井上哲次郎『人格と修養』(廣文堂書店、1915年*1)は若者に対して修養の重要性を説いた本ですが、では具体的にどのような技法によれば修養を成し遂げられると考えていたかといえば、どうも抽象的な議論に終始し、所謂“修身”のごとき精神論が議論の中心になっています。
例えば、「人間の本性と修養」一章などでは、性欲の節制を前提にしない道徳などあり得ないという、ド直球の論理を展開しています。しかしそこで修養法として示すのは、生活習慣の改善とか心構えのありかたとかそういったもので、身体技法的な何かは志向されていないのです。
貝原益軒について一章を設け、「衛生と道徳」一章で身体的な健康が精神的な健康の基盤であることを言いながらも、『養生訓』まで引いておきながら、しかし静坐や呼吸法によって精神や肉体の安寧を目指すといったようなことを語ったりしないのです。釈宗演×鈴木大拙が『静坐のすすめ』で瞑想の実践を青少年に説いたことときわめて対称的と言えるでしょう。
同書で唯一身体技法として解釈できるのは、「青年学生勉強法(其三)」*2でしょうか。第一節として「読書よりも先づ形を正せ」とし、次のように述べています。

殊に自分の修養に関して、聖賢の言行を讀誦する場合の如きは、正心端坐するにあらずんば、彼我の精神交通して、十分に会得することは覚束ないのである。斯かる場合に自分の姿勢態度を正しくしなかったならば、身心共に其読む事柄に適応しないが為に、頗る其了解を妨げるのである。

続いて木下順庵の例を出しているように、ここで語られている読書を通じた聖人との交感を目指すような読書法は、儒者による経典の読書法そのままです。儒者が行う読書法は静坐とつながる瞑想的な技法でもありましたが、同書の範囲では、井上哲次郎自身は静坐を修養の技法として問題にしていません。