郭沫若と静坐(2):スピノザ、荘子、王陽明
当時を振り返って書かれた自伝の中で、郭沫若は静坐の実践は伝統的に荘子から王陽明へと受け継がれてきたものだという認識を示しながら、それがスピノザの汎神論と同内容であることを述べています。
……私はある時期王陽明の崇拜者だったことがあった。それは一九一五年から一九一七年にかけて私が岡山の第六高等学校で学んでいた時期のことだった。そのころは汎神論の思想に染まっていたので、スピノザ、ゲーテを崇拝しており、タゴールの詩を耽読し、中国の古人の中では荘子と王陽明を崇拝していた。
荘子の思想は一般には虚無主義と考えられているが、私は彼をスピノザときわめて近いと思う。彼は宇宙万物を一つの実在する本体のあらわれと考える。人はこの本体を体験し、万物を一体と見なし、個体の私欲私念を排除すべきである。これによって生命を養えば平静たりえ、これによって政治を行えば争乱がない、というのである。彼はむしろ宇宙主義者ということができる。そして彼の文筆は、私の見るところによれば、中国の古文中で古今独歩のものである。王陽明の思想は禅理を本質として儒家の衣裳をまとっているけれども、実は荘子と異なるところはない。彼は荘子の本体、いわゆる「道」を、「良知」と命名し、一方では静座を主張して、「良知」の体験を求め、一方では実践を主張して、知行合一の生活を求める。その出発点に問題はあるにしても、彼の「事において錬磨する」という主張は、一切の玄学家(一種の神秘主義的空論家)の歪曲を救うに十分である。そして彼自身の実践、昔のいわゆる「経論」も、まさしく彼の学説の保証である。私は当時静座を学び、彼の「伝習録」と詩を耽読したものだった。のちには捨ててしまったが、私の彼に対する崇拜は依然として断ち切れていない。彼は何といってもわが民族の発展における一人の傑作たるを失わない、と私は信じている。(郭沫若『続創造十年』、平凡社東洋文庫、1969年、pp.18-19。)
郭沫若にとって、静坐の実践は東西を結ぶものであり、古今を繋ぐものであったというわけです。続きます。
- 作者: 郭沫若,小野忍,丸山昇
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1969/12
- メディア: 文庫
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