Under the hazymoon

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胃腸いい調子?

 今日は遠藤老師の実体験をまじえつつ、他の会員方の腰を触らせてもらって、自分の腰の出来具合を確かめるというのをやりました。。。が、よく分かりませんでした。やはり身体感覚がさして鋭敏でないので、自分のがよお分からん状態なので他人の出来もよお分からんといった具合。修行が足りませぬ。
 

 肩と腰の問題と合わせて遠藤老師が言われたのが胃についての体験でした。含胸の効果か走圏をしていくことで、病んでた胃が元気になったそうなんですね。おお、健身効果。
 とはいえ、誰もがそうなるとは限らず、初心者の方で始めて三ヶ月の頃は調子がよくなってたとか、げっぷなら出るとか、いやいやおならが、とか反応はわりかしばらばらでした。僕はというと、あまり実感がないのです。がーん。食欲は向上しましたがこれは関係ないし(爆
 内臓となると、位置など含めて個人差が外身より大きい気もするので、必ずしも確実なことではないでしょう。確実なら修行過程で重視されるはずですし、実際、内丹などではやはり心臓の方ですよね。胃もあるんだろうか。うーん、なかなか難しい問題です。
 ただ、標準的な原理(あるいはこれを口訣とみなしてもよいでしょう)と距離をおいた、こういう個人差の出るであろう身体感覚の記述は、すごく大切なものではないかと思います。伝統的には、個人的な記述は口訣への解釈として原理に寄り添い埋没していったことでしょう。そして、案外そうした個人差が織り込まれることで、そこへの適合者が生み出され、選ばれすぐれた人しかアクセスできないルートの再生産が行われるのではないでしょうか。しかし、今回の練習のように、そしてその延長としてこのブログのように、個々人の個人的体験の記述というものが流通されるようになれば、原理はソースとして一意的に残されたとしても、そこから学習者に応じたレベルでの発展モデルが複数生み出され、多様な学びを可能にするのではないでしょうか。
 もっとも現状では追体験や検証できるような体験談や経験を記述している人がそんなに多くないので、効果がさほどあがってないかもしれません。みなさんもっと書いてくださーい。三人寄れば文殊の知恵、百人寄れば如来の知恵、ですよん。
 
 ところで、前に述べた伽藍とバザール方式になぞらえれば*1、原理に収束していく学びを伽藍式学習モデル、個人的な経験が並列する学び*2をバザール式学習モデルと名付けることができるでしょう。武術に限らず伝統芸能の世界においては、もちろん伽藍式学習モデルが採用されていました。この方式によれば、一部の者に富と権力を集中させることができますし、また歌舞伎などを見てもそうですが、集中させなければその伝統の存続が危ぶまれるわけです。なぜならその技術は特殊なもので、誰もが学ぶ必要はないため、普及すること自体ができないからです。規模が小さいことを前提とした場合、畢竟リソースの集中が求められる、ということなのかもしれません。
 では、武術、特に中国武術の場合はどうでしょうか。もし必殺の技に基軸を置くのなら、言うまでもなく現在において誰もが必要とするものではありませんので、伽藍式学習モデルが適切かもしれません。武術の心得がなければおちおち道も歩けないような社会を望む人がいるでしょうか? 。。。いたりして。ま、それはさておき、中国武術には、しかし武ではなく、文の要素、健身養生の要素もあります*3。特に内家拳はその傾向が強いわけですね。で、こちらを基軸におくとすると、これは誰もが必要とする蓋然性が高いので、バザール式学習モデルの方が相性がよい、ということになると考える次第です。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20060913/p1

*2:もちろんこの場合、個々人が自分だけが真理である、と思いこまないことが大切です。

*3:歴史的に、これが本来そうだったか、後代時代の要請にともなって捏造されてきたかは、議論の余地ありでしょう。