Under the hazymoon

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ダメなら次の一歩があるさ

 先週と今週とで腰と足について重点的に教わりました。いろいろと注意すべきことは多く、本来要求はすべて満たしつつ走圏を行わなきゃいけないわけですが、そんなことは無理。だからまあその時々で、今日はここを重点的に、という練習もまあいいでしょう、との由。 
 

 人それぞれ抱えてる問題が違うので、一人一人ごとに練習の内実が異なるというわけです。確かに僕は足を少し重点的に鍛えないと身体を支えきれませんし。
 この最初にすべてを教え、実践にあたってはしかしすべてを求めない、というのはすばらしい教学法だと思います。ふーちゃんとも話してましたが、練習しているとどこか頭に残っているので、今日はここを練習と思ってやったところで、そこだけを練習ということにはならないからです。しかし他方、最初にすべてを知ってしまうと、できない自分との齟齬にやきもきする、焦ってすぐにすべてを満たそうとする、といった弊害もあります。だから遠藤老師は教えられるときには、同時にできなくってもいいんですよ、これは時間がかかるんですよ、と繰り返し強調されます。
 一歩踏み出すときに要求を満たそうと集中して、でもできなかったりする。そのときには、そこで立ち止まってはいけない。できないのはしょうがない。次の一歩をできるようにと、気持ちを次の一歩に持って行きつつ歩くんですよ、と遠藤老師は言われました。
 内丹にしろ站椿にしろ、伝統的に理想の身体は静止の中にこそあるわけで、走圏とは静の極みを動きつつ実現するという矛盾した行為に他なりません。歩みをすすめることでせっかくの姿勢がリセットされてしまう、というのが走圏の困難ですが、それをマイナスと考えず、次の一歩をより理想に近づけるためのリセットと捉える、これはすごい発想です。走圏という修練方法ならではですが、その根底には中国の伝統的な思考が感じ取れます。
 
 遠藤老師は、言葉の上でどう解釈するかということではなく、心でどう受け止めるかということが大切です、と言われました。「言伝心授」をよく強調されます。言葉がまったくなければ伝えることは難しい。しかし大切なのは言葉ではない。僕も全く同意するものです。とはいえ、それだけでは僕なんかは商売あがったりなわけ(^_^;)で、だからこうしてブログにまめに書いているわけで、そのうちこのあたりのことはきちんと論文にしてみようと思っています。そのときには事前に遠藤老師に見てもらって、解釈の相違は許してもらうにしても、書いたらヤヴァいことがないか、チェックしてもらわないといけません。最大の問題はそうなると、〆切がずいぶん前倒しになる、ということですね。。。
 
 後半の練習は反背錘の対練でした。例によって力や技よりも意を重視し、「無人如有人、有人如有無人」(相手がいないときは相手がいるかのように、相手がいるときは相手がいないかのように行う)の感覚で、なんですが、反背錘も前までの掌法同様こうなるのかーと分かって、ちょっとわくわく。このあたりはやっぱり男子ですな。よろしくありません。