Under the hazymoon

http://researchmap.jp/nomurahideto/

老荘的語りは中国原産か?

 道文研で発表するも、既定路線でぼろぼろでありました。そしていつものようにいろいろ教えていただく。ありがたや。
 方向性としては、総論賛成各論反対、ようすれば、ヨーガ、気功から日本の丹田呼吸法までを見取り図として一枚に描くにあたり、内丹も当然入るし、中国武術も入る、とそういったことはおおむねみんなそう了解しているわけで、そこをどう学問的にきちんと跡づけるかということになるわけです。
 

 実際の研究としては、じゃあ内丹や中国武術に他と違う要素があるとしてそれは何?ということを問いつつ、かつそれを実践的な技術を想定しつつ検討していくと。そうなると、すでに言われまくっているように、核になるのはみんな同じ丹田呼吸ということになるわけです。
 そこで、指摘されてはっと気付いたのは、全部をそこ一点に還元していこうとするシンクレティズムな志向性がオカルティズムなので、それをそれとして見据えつつ分節化するのがアカデミズムでしょ、というところ。それはその通りなのだけど、ただ他方、じゃあアカデミズムの世界で、というか僕の専門でやってるところで、そうしたひとまとまりにみなす見方がどれだけ前提として了解されているかというと、僕はちと疑問があったりするわけで、そのへん双方向的に議論を組み立てていかないといけないように思ってます。
 あるいはポイントは、これまでも考えてきた近代化される前の伝統的な教学システムをどう合理的に論ずるか、ということとどうも根が同じようです。つまり、仏教が老荘思想に出会って中国禅を生み出したように、ヨーガが老荘思想に出会って内丹になったとすれば、実践的な技術を老荘的に語ることで成立している部分があるのではないか、逆に老荘的な語り口をともすればレトリックとして読んでしまうが、実は技術的な裏付けがなされているのではないか、といったようなことが考えられそうです。実際、八卦掌を習っていて、老荘的な言辞に実質が伴っていることをしばしば体験しました。経学的研究の立場からすると、なんじゃその通俗解釈は、ということになるのかもしれません。でも、それこそが文化の継承として常態なのだとして、きちんと跡づけるということをすることで、展開が見えてきそうです。
 あと、やっぱ『黄庭経』すげーよ、という話にもなり、きちんとそっちの文献学的研究したら?とのおすすめもありました。うう、おもしろいと思うけど、茨の道のような。今回の発表も数年前にいただいたアドバイスをようやく消化し始めたといった体たらくなので、これも取りかかるのは数年後だったりして。。。て、そんなことやれてる余裕あるのかな、数年後。明日はどっちだ。