Under the hazymoon

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三木成夫と村木弘昌

前に三木成夫の思想と伝統養生思想の親和性について言及したが*1、三木自身、村木弘昌から調和道の丹田呼吸を学び、自分の思想と共通するものだという認識を持っていたようだ。

私もそれまで、人体の解剖学、特に比較解剖学と申しまして、魚と人間を比較するというような事をやっていましたので、当然その呼吸の問題にも関心を寄せておりました。ですから先生の丹田呼吸の世界は何の無理もなく私の中に入って来ました。以来、自己流でやっていますが、私の場合、……日常の動作の中でどのようにこの呼吸が取り入れられるかを考えています。そんな中で小、中、大の波浪息は、やはり一番なじみ深いもののようです。
 この調和道の波浪息ですが、村木先生のお話によりますと、それは、道祖が九十九里浜の砂に腰を据えてその呼吸を実践していたとき、太平の波打ちに身心が溶け込まれて、そこからごく自然に体得された、ということです。この事をお聞きして私は、まことに我が意を得たりと思いました。皆さんもそうだと思いますが、浜辺にいて波の音を聞いていると心が安らいでくるものです。これは波打ちのリズムと呼吸を含めた身の奥底にあるリズムに共通のものがあるからではないかと思うのです。波打ちのリズムにはどうやら生命の根源を支える何物かが秘められているようです。
三木成夫「海と呼吸のりずむ」、『海・呼吸・古代形象』、うぶすな書院、1992年

同書には吉本龍明が解説を寄せていて、次のようにまとめている。

 わたし自身は仕事のうえで、この著者から具体的な恩恵をうけた。わたしはわたしたちがふつう何気なく〈こころ〉と呼んでいるものはなにを意味するのか、そしてその働きはどんな身体生理の働きとかかわっているのか、またわたくしたちが感覚作用とか知覚とか呼んでいるものとどこがちがうのか、ながいあいだ確かな考えをつくりあげられずにいた。そのくせ内部世界とか内面性とかいう言葉で、漠然と文学の表現と〈こころ〉の働きのある部分をかかわらせてきた。だが〈こころ〉という働きとその表出、また感覚のはたらきとその表出のかかわりと区別がどうしてはっきりしない。
 こんなときこの著者ははっきりと決定的な暗示を与えてくれた。……〈こころ〉とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できると見とおしが得られた。……
吉本隆明「三木成夫について」、『海・呼吸・古代形象』、うぶすな書院、1992年

内臓と感情がつながっているという、古代中国より、東洋医学や養生思想などによって受け継がれてきた身体観が、解剖学的な知見によって、近代化し、再生したとでも言えばよいのだろうか。もちろん科学的に証明されたとは言い難い。気功をめぐる言説と符合する、再物語化とでも言えばよいのだろうか。

*1:http://nomurahideto.hatenablog.jp/entry/2013/04/04/163015