Under the hazymoon

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必殺!十字穿掌ー!

 十字とかつくと必殺技っぽくっていいなあと思うわけですが、練功法でした。
 三穿掌の流れで直線を往復する穿掌の練習方法を習った次は、十字に穿掌をする方法を習ったのでした。直線の往復の帰りの半分で270度方向転換して横に往復してまた最初の位置までもどると。場所を取るやり方なんで、他の人の邪魔にならないようにとか気をつかってると、のびのびと意念をとばして練習できずあんまり効果があがらないような。個人練習でやった方がよさそうです。
昔ビー玉遊びはそんな感じで十字を描いていましたっけ。
 

 方向転換した後の最初の一突きのときに擺歩した足を半歩出すんでしょうか?と質問したところ、擺歩した歩幅が小さければ半歩だせばよいし、大きかったらそのまま突けばよいでしょうというおおらかなお答えが。うーん、気にしなくてよい問題だったようです。
 八卦掌もまた多くの伝統芸能と同じく、型を通じて「わざ」を学ぶという教学システムなんですが、型の細部よりも型を通じて体得しようとしている境地(というと語弊がありますね、原理や道理とした方がよいでしょうか)に即して考えるという、よく日本の伝統芸能の教学システムと西洋のそれとの比較からは出てこない、和洋折衷みたいな考え方だなあと思ってしまいます。実際、こうした日本の特殊性を論じるような芸道論て中国のものを第三項におくと、相当相対化されてしまうように思うのです*1
 遠藤老師からは疑問におもったことは何でも聞いてくれてかまわないとありがたいお言葉をちょうだいしています。というのも個々人の頭の中はのぞけないので、仮に表面上は同じ動作になるように指導できても、意識の部分はある程度までしか動作に現れないので、そこはコミュニケーションをして修正していく必要があるからだそうです。同じ動作をしていて達成しようとしていることが違うなんてあり得るのか、といえばあり得るのではないかと思います。というのも、何を意図するかというのは身体感覚に如実に関わるでしょうし、身体感覚も含めて統一的なイメージを持って修得することを前提とした教学体系なのですから、気がつくと目的とは違うところに進んでいた、ということになりかねないのでしょう。ミラーニューロンの構築に行動の目的という意味づけが関与するのであれば、あり得る話です*2

*1:あるいは論者が日本の伝統芸能を見る際に見落としているのか、武術のような実践性の高い技術はまた別のレイヤーを持つのか、ちょっと保留。

*2:ミラーニューロンはすごく説明が上手くできるネタだけど、どこまで使ってよいんだろう。きちんと勉強しないとこわいなー。