nomurahideto's blog

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八卦掌の精気神

 さて、李老師講習会が終わった後、李老師も含めて何人かで飲み、そこで雑談から武術の話までいろいろとお話を伺いました。萇乃周という清朝の武術家の著作がすばらしかったと伺い、これはまた研究のネタがと、帰宅後早速注文させていただきました。よっしゃー。また散財ですが。ううきついの。研究費がほしい。
 また、いくつか同席者から質問があり、李老師に快くお答えいただきたいへん勉強になった次第です。
 

 個人的に気になったのは、夏目さんからの質問で「意」と「神」をどう考えればよいかという、前々から持ち越している疑問についてで、さすが夏目さん今回もこりずに質問(爆 いや僕も隙あらば聞こうと思ってました。難しい問題なので、毎回決して同じ答えが返ってくるわけでなく、また繰り返し何度も聞き、何度も考えることで、少しでも答えに近づくしか方法はないわけで。
 で、そこで李老師の答えが精・気・神でした。言うまでもなく、これは内丹の修行階梯、精>気>神をふまえた話なのですが、ゲットだぜ、というお答えを今回はいただけました。それは僕らや李老師がどのレベルにいるかということです。李老師は現在、気のレベル、錬気化神の段階なのだとか*1
 それでは僕たちはどの段階でしょうか?と、まあはい、いけしゃあしゃあと聞いてみたところ。。。まだ精のレベルにも達してない、そうです。どっかーん。そりゃそうか。しかしここで大切なのは、講習会で気血の充実を言っているけど、その気血の「気」と精気神の「気」とは違うものだよ、ということなのでした。おお。現段階では走圏で気血を充実させ筋骨を変化させる練習をしているそうなのです。それがあるレベルに達すると身体が変化し精が満ち、次の段階で精の修行練精化気に入るのだそうです。なるほど。では、現在の走圏と精気神の修行では何が異なるのでしょうか、と伺ったところ、やはり具体的な修行方法は走圏なのだそうです。ただその意味が違うのだ。ぱっと見は同じように見えても全然違うのだよと、李老師は言われました。それが分からないのは僕らがまだその段階に来ていないからだそうです。ううむ、そこを何とか。
 じゃあそもそも精気神って何なんでしょう?という疑問は残るわけで、そこについては抽象的なレベルではそれは生命力、のようなものというお答えが。精気神は同じものの発現レベルの差異でしかないとの由。具体的な例えとして出されたのが、赤ちゃんの例です。生まれたばかりの赤ちゃんは元気で活力に満ちているように「見える」、これが精があるということだそうです。それが外部に勢いよく発散されているように「見える」と、それは気があるそうです。そして、外見は決してかわいい姿をしていなくても有無を言わせぬ迫力とか神々しさが「見える」、それこそが神なのだとか。また精については、葉っぱがしおれている状態は精がなく、みずみずしい状態は精がある。夏目さんが伊藤若沖の鶏の絵を見て今にも動きそうに感じたのだけど、これは神ですかと尋ねると全くその通りという答えが。
 おそらくポイントは、そのように見える/感じる、というところではないかと。ついオカルトっぽくオーラがとか言い出す人がいるかもしれませんが、そういう理解ではあかんと思います。現時点では、そのレベルに到達してないので教えてもらってないのでしょうけど、おそらく走圏において全く同じ要求ながら精気神の各段階で明確に内容が異なる状況があるのでしょう。あるといいなあ。どうなんだろう。ここ、内丹の階梯がそのまま来ているので、どんぴしゃ僕の研究なので、10年後には分かるから、では困るんですよね。論文書けない。何とか記述したいけど、そうなるとクオリアとかそんなん経由するしかないかな。うーみゅ。。。しかし、現時点でもかなり有力な示唆をいただきました。
 この件については、ものすごく有り難いことに、もうすぐ『易筋経』の解説を書き終わるよと李老師からうれしいお知らせがありました。これは是非翻訳させていただきたいです。これで李老師の精気神論をもう少し分かりやすく学ぶ機会ができます。これについても、一つポイントがあってこれは李老師独自の解釈であって、于老師からは『易筋経』について習ってないのだそうです。つまり馬貴派の教学体系には入ってないということなのでしょう。うーむ、気になる。

追記(2/4):李老師に改めてこの本でしょうかと伺ったところ、解説はそんなによくなかったとか。決して重要な資料というわけではないけど、啓発されたところはあったので、教えたんだけど、それより『易筋経』の方をきちんと読みなさいというアドバイスをいただきました。うーむ、やはり取り組まねばならぬか。

*1:ちなみに于老師は、聞き取りそこねたかもしれませんが、李老師のお答えではおそらく神であろう、との由。これは李老師がまだそこまでたどり着いてないので、確証がなく明言を避けられたという感じでした。