Under the hazymoon

http://researchmap.jp/nomurahideto/

最初の一人さえ説得できてなくていいのか?

職場で台湾の大学との学術交流会がありました。通訳ひどかったと我ながら反省。中→日の方がまだましか。事前に予習しきれんかったのが悔やまれるけど、まあレジュメもあったし大きな誤解はなかった模様。と日記には書いておこう。
それはさておき、議題とは違ったところでやはり気になったのが、思想研究における実践の問題。

中国哲学の場合、個人の修養と社会の運営と二つの課題が伝統的には同心円状に配置されるものの、社会の運営面については、時代ごとの制約が大きいのでそちらは法学や社会学など社会科学にまかせて、こちらとしては個人の修養面で多く現代の実践に学ぶところ示すのがよくはないか、といったような意見に対し、でも中国哲学でも社会の運営に対する発言はできるだろうしそっちの探求をしなくていいの?という反対意見が出ていました。いやもちろんそういうことが議論されていたのではなく、あくまで僕の見立てというか空耳ではありますが。
だまって聞いてた僕としては、やっぱり、儒教研究の成果として個人の修養しか語れないとしたら、それは儒教としては負けじゃないの?、というこれまでどおりの感想を出ることはありませんでした。
そして個人の修養にしても性善説を唱えるのはいいけど、研究として述べているのだから自分は実践できてなくていいんだというような語り方は、自分自身という「最初の一人さえ説得できてない」(by山形浩生)点でダメだし、耳に心地よく聞こえるとしたらそれってアブなくね?と、理想を語ることで現実を免罪するということを研究の名の下にやっちゃっていいのかと、これまたこれまでどおりの感想を出ることはありませんでした。
しかし翻って、実践が上手くできてないと発言できないのか?*1という問いかけをここでもするとき、確かに論者の実践の奈何と議論は切り離すということも考慮しなければいけないのかもしれない、と自問自答してしまいます。でも僕自身は、とりわけどう生きるかとか倫理に立ち入ってしまう場合は、やはり自分で実践できないことは言わないでほしいなという感想を持ってしまいます。もっとも研究者の倫理ということになると、スピ流行りの現状を見てなお、その強化に使われる可能性がある内容を、だって道教関係だと、気なんてあって当然、守護霊ばりばり、みたいなもんで、学術研究だからといって何のてらいもなくできるのか(いや信じてないからあくまで文化現象としてみてるだけよーんという態度なら大丈夫かというと、そんなに甘い話ではないでしょう)、ということも内容が正しければ誰が言ってもいいのかどういう状況で言ってもいいのか、という属人性や文脈の問題として考えねばならずやはり悩ましいです。マニアックな研究なんて誰も読んでないから大丈夫、自意識過剰だよと言って終わらせてよいもんかと。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nomurahideto/20080708/p1