Under the hazymoon

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朱熹静坐集説注釈稿(1)

  1. 東洋大学所蔵円了文庫の静坐集説*1を底本とした。九州大学所蔵のもの*2と同じものと思われる。
  2. 訓読は底本に従いつつも適宜補った。
  3. 川幡太一氏の漢文訓読JavaScript*3により原文と訓読文を一括生成した。
  4. 佐藤直方全集や他の版本との対校は改めて。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」*4には朱子学の基本文献のデータが多数公開されており、佐藤直方全集収録の静坐集説のデータも公開されている。

静坐集説序

【現代語訳】
さて動静とは天道自然の機微なのであり、静を主として動を制御することは、学者が身につけるべきことである。古の聖賢による小学大学の方法や、居敬窮理の教えは、まったく理由があることのだ。道教徒や仏教とは動を嫌って静を求めるから、本来天道を全うするものではない。俗儒も最初から主静が重要であることを知らないために、学んだものがすべて実用的でない頭で考えたものにしかならない。それでどうして学者と呼べるだろうか。程朱が説いた静坐は学者が心を安定させる技術であり、徳を積む基礎である。今聖賢を学ぼうとする者はここに力を入れなければ、何を身につけることができるというのだろうか。静坐で心配なのは、坐禅入定に傾倒してしまうおそれがあるだけだ。我々が朱子の教えを遵守して、しっかり努力できたら、本当に善学者と言えるだろう。柳川剛義は以前朱子の言葉で静坐に言及したものを収拾し、整理して一篇にまとめた。その名も静坐集説。講義の参考にと用意したものだ。最近になって私の言葉を冒頭に載せて出版したいとの要望があった。私は静坐に注目することがすばらしいと考え、その要望に応ずることにした次第である。
享保二(1717)年秋、佐藤直方、東武僑居に記す。

【原文】
夫動静者天道自然之機、而主乎静以制其動、則學者修之之功也。古昔聖賢小學大學之方、居敬窮理之訓、良有以也。老佛之徒厭動而求静。固非天道之全矣。俗儒又初不知主静之爲要、則所習皆無用之妄動而已。何足謂之學者乎。程朱所謂静坐乃學者存心之術、而積徳之基也。今欲學聖賢者不能用力於此、則亦豈有所得於己哉。但静坐之可慮者、或有流入於坐禅入定之患耳。吾輩能循朱子之明誨、而實用其力、則誠可謂善學者矣。柳川剛義嘗摭朱子之言及於静坐者、集次爲一篇。名曰静坐集説。以備講習之考察焉。頃請冠予一言於篇首而刻之於版。予奇其注意乎静坐之説、輒應其請云。
享保丁酉季秋。佐藤直方操筆于東武僑居。

【訓読】
夫れ動静とは天道自然の機にして、静を主として其の動を制するは、則ち學者之を修むるの功なり。古昔聖賢の小學大學の方、居敬窮理の訓は、良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。老佛の徒動を厭て静を求むれば、固より天道の全きに非ず。俗儒は又初より主静の要を爲すを知らざれば、則ち習ふ所皆無用の妄動なるのみ。何ぞ之を學者と謂ふに足らんか。程朱の所謂静坐は乃ち學者心を存するの術にして、徳を積むの基なり。今聖賢を學ばんと欲する者は力を此に用ふ能はざれば、則ち亦豈己に得る所有らんかな。但静坐の慮る可き者は、或は坐禅入定に流入するの患有るのみ。吾輩能く朱子の明誨に循ひて、實に其の力を用はば、則ち誠に善學者と謂ふべし。柳川剛義嘗て朱子の言静坐に及ぶ者を摭(ひろ)ひ、集次し一篇と爲す。名づけて静坐集説と曰ふ。以て講習の考察に備ふ。頃(このごろ)予が一言を篇首に冠して之を版に刻するを請ふ。予其の意を静坐の説に注するを奇とし、輒ち其の請に應ずと云ふ。
享保丁酉季秋、佐藤直方東武僑居に操筆す。

*1:OPACの表示するURLが機能しないし、CiNii Booksへのリンクも切れている(2013.11.12時点)。

*2:http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA68343170

*3:https://github.com/kawabata/kanbun-javascript

*4:http://mokusai-web.com/index.html

型練習の先にあるもの

型練習といっても、馬貴派八卦掌では動作に習熟することを目的として練習してはいません。基礎鍛錬である走圏や単換掌の目的は、姿勢を正すことにより身体を強くすることだ、と李先生は言われます。現代風にいえば肉体改造です。
走圏にしろ、単換掌にしろ、実際には武術のわざとして機能するように考えられています。走圏は少し変化すれば穿掌を打つ動作になり、単換掌は様々な攻撃の動作へ変化します。もっともそうした個々の具体的な攻撃方法を想定して、走圏や単換掌を練習してはいけないとされます。原理、という言葉を李先生は多用されます。最近は、技術ではなく能力を身につけるのだ、と繰り返し話されます。ようするに、走圏や単換掌の練習を通じて、動ける戦える身体を作ることを目指せ、ということなのでしょう。野生動物が突きや蹴りの練習をするか?といった問いを格闘マンガか何かで読んだことがあります。そういうことなのでしょう。もっとも、野生動物は戦い、というか狩りの練習を子供の頃から遊びとして行っていますけども。
どんな時どんな場合でも決して破ってはならないもの、個別の規則を超えたもの、そうした原理的なものを“規矩”と呼ぶのだそうです。正しい姿勢、中正を守ることが武術に限らずあらゆる動作における規矩なのだと。これは中国哲学というか、中国文化の基層的な思考にあるものですね。どんな内容かに関わらずバランスを取ることが重要というメタ的な志向です。
日常生活や運動習慣からバランスの崩れた姿勢が癖になっているため、走圏や単換掌によって、“本来”のバランスのとれた姿勢、“自然”な状態を回復する、それが練習の目的となります。幼子の歩き方や姿勢に学べ、と李先生は繰り返します。休んだり眠ったりしているときの背筋を、歩いたり動いたりするときにも維持せよ、と。この人工的に自然な状態を作り出す、意識的に無意識な動きを実戦するといった、矛盾するような考え方は道の思想の真骨頂とも言えるものでしょう。
さて、繰り返し練習を続けて、走圏や単換掌で中正を維持した動きができるようになったら、それで練習は完成されたことになるのでしょうか。そうではない、ここからが本当の練習だ、というのが、先日の李先生のお話でした。走圏と単換掌は永遠に完成することはない。初心者であろうと上級者であろうと、常に練習し続けれなければならない。それは何故か。李先生は次のように話されました。

毎日毎日練習を繰り返しているうちに、とても調子がよい日があったりする。理由は全く分からない。それまでと同じように練習しているのに、いきなりものすごくよく動けて、心身ともに充実した状態になったりすることがある。それが次の日にはまた元に戻る。練習を繰り返しているうちに、調子のよい日が訪れる間隔が短くなる。さらに練習を重ねていくうちに、毎日充実感を得られるようになる。もっと練習をしていくと、それまで2時間練習してようやく充実していたのが、ものの十数分で充実するようになる。そしてついには、構えた瞬間に気力が充実して動けるようになる。これは正しい姿勢によって、身体の内側が変化してきたことによる。身体が一つにつながれば、気血のめぐりがよくなる。背筋が伸びていれば、精神が高揚する。練習を重ねていくことで身体が変化していけば、同じ動作で得られる感覚も異なり、新たな経験となる。変化を感じ取るため、走圏と単換掌を日々穏やかに練習するのだ。

では、こうした次の段階に進むための、具体的な練習の要点はどこにあるのか。李先生は「一気呵成」という言葉で説明されました。姿勢や動きが正しくても、動作が分割されてばらばらな状態ではいけない。一歩、一動作を一呼吸で行うこと、それが身体をつなげ、気血の流れのなめらかさを生み、身体を変えていくのだそうです。姿勢に十分注意を払った上で、余力があれば呼吸にも気をつけるようにと、歩法と呼吸の対応関係を先日教わったのですが、これもまた次の段階の練習なのでしょう。

追記(10/26):



三木成夫と村木弘昌

前に三木成夫の思想と伝統養生思想の親和性について言及したが*1、三木自身、村木弘昌から調和道の丹田呼吸を学び、自分の思想と共通するものだという認識を持っていたようだ。

私もそれまで、人体の解剖学、特に比較解剖学と申しまして、魚と人間を比較するというような事をやっていましたので、当然その呼吸の問題にも関心を寄せておりました。ですから先生の丹田呼吸の世界は何の無理もなく私の中に入って来ました。以来、自己流でやっていますが、私の場合、……日常の動作の中でどのようにこの呼吸が取り入れられるかを考えています。そんな中で小、中、大の波浪息は、やはり一番なじみ深いもののようです。
 この調和道の波浪息ですが、村木先生のお話によりますと、それは、道祖が九十九里浜の砂に腰を据えてその呼吸を実践していたとき、太平の波打ちに身心が溶け込まれて、そこからごく自然に体得された、ということです。この事をお聞きして私は、まことに我が意を得たりと思いました。皆さんもそうだと思いますが、浜辺にいて波の音を聞いていると心が安らいでくるものです。これは波打ちのリズムと呼吸を含めた身の奥底にあるリズムに共通のものがあるからではないかと思うのです。波打ちのリズムにはどうやら生命の根源を支える何物かが秘められているようです。
三木成夫「海と呼吸のりずむ」、『海・呼吸・古代形象』、うぶすな書院、1992年

同書には吉本龍明が解説を寄せていて、次のようにまとめている。

 わたし自身は仕事のうえで、この著者から具体的な恩恵をうけた。わたしはわたしたちがふつう何気なく〈こころ〉と呼んでいるものはなにを意味するのか、そしてその働きはどんな身体生理の働きとかかわっているのか、またわたくしたちが感覚作用とか知覚とか呼んでいるものとどこがちがうのか、ながいあいだ確かな考えをつくりあげられずにいた。そのくせ内部世界とか内面性とかいう言葉で、漠然と文学の表現と〈こころ〉の働きのある部分をかかわらせてきた。だが〈こころ〉という働きとその表出、また感覚のはたらきとその表出のかかわりと区別がどうしてはっきりしない。
 こんなときこの著者ははっきりと決定的な暗示を与えてくれた。……〈こころ〉とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたあるひとつの表出だ。また知覚と呼んでいるものは感覚器官や、体壁系の筋肉や、神経のうごきと、脳の回路にむすびついた表出とみなせばよい。わたしはこの著者からその示唆をうけとったとき、いままで文字以後の表現理論として展開してきたじぶんの言語の理念が、言語以前の音声や音声以前の身体的な動きのところまで、拡張できると見とおしが得られた。……
吉本隆明「三木成夫について」、『海・呼吸・古代形象』、うぶすな書院、1992年

内臓と感情がつながっているという、古代中国より、東洋医学や養生思想などによって受け継がれてきた身体観が、解剖学的な知見によって、近代化し、再生したとでも言えばよいのだろうか。もちろん科学的に証明されたとは言い難い。気功をめぐる言説と符合する、再物語化とでも言えばよいのだろうか。

*1:http://nomurahideto.hatenablog.jp/entry/2013/04/04/163015

腰を反る伝統:ヨガの場合

全然体系的に調べれてないのがダメすぎるが、ともかくある程度アタリがつかないことには、とヨガ関係のものも、若干手を出しています。佐保田鶴治は岡田式と縁がありますが、沖正弘はそのへんどうなんでしょう。とりあえず写真が多いということで、沖ヨガの元のアイアンガーの本を一応入手。

ヨガ呼吸・瞑想百科―200の写真で見るプラーナーヤーマの極意

ヨガ呼吸・瞑想百科―200の写真で見るプラーナーヤーマの極意


で、とりあえず写真だけぱらぱら見ていったのですが、
f:id:nomurahideto:20130407112550j:plain
ばっちり腰反ってる!(p.109)
理論的背景については、文章を引用するより次の図を参照した方がはやいかも。f:id:nomurahideto:20130407123517j:plain
見事に臀部を出して腰を入れてます(p.106)。これは岡田式静坐法と同じ?かもしれません。
ただしそれは身体の後面の話で、前面は違います。ヨガの方は胸があがってますが、岡田式では下げますので。そうなると、

技法名
沖ヨガ
岡田式
内家拳

と一応分類できることになるでしょうか。
興味深いのは身体の中心の位置が、沖ヨガと岡田式・内家拳で違うことです。後者は丹田、臍か少し下ですが、前者はもっと高い位置、臍より上、横隔膜のあたりに設定していることでしょうか。身体技法と連動しているといってよいでしょう。
さて、丹田の位置を臍下三寸(二寸)というときに、臍から身体の奥に進むように設定すれば腰の張りが重要になります。これはたぶん内丹法でも同じ。下というのは中という意味ですから。しかし、岡田式の場合、もっといえば日本の丹田理解は、体表に沿って臍から下にさげて経穴のように考える傾向が強いようです。この解釈に立てば腰を反らすことには理論的整合性があるかもしれません。
ちなみに以前李先生が外家拳内家拳では丹田の位置が違うという話をされたことがあって、内家拳が下腹部に丹田を設定するのに対し、外家拳は上腹部に設定するそうなのです。上腹部とは横隔膜のあたり、そして外家拳の代表は少林拳、達磨がインドから中国に輸入したとされる武術です。実際のところはともかく、ヨガと少林拳で身体感覚は共有される、ということなんでしょうか。ロマンはあるけど実証は。。。
ところでアイアンガー師、なかなかよい肉付きです。ヨガ=スリムというイメージを是非打破していただきたい、中国武術や気功の普及のために。違うか(^_^;)

腰の要求は原初に遡る?

三木成夫『内蔵とこころ』で語られている内容は、馬貴派八卦掌を始め、中国の伝統的な修養法の文脈によく共鳴する。

内臓とこころ (河出文庫)

内臓とこころ (河出文庫)

とりあえず最近の僕の関心である、腰の要求に関してだと、直立人の脊柱ができるまでという図をみると(p.127)、見事に人類とそれ以前とで背骨のカーブが違う。

f:id:nomurahideto:20130404131721j:plain

  1. 魚類
  2. 両生類
  3. 爬虫類
  4. 哺乳類
  5. 人類

三木は人類が直立歩行することで人としての「こころ」を得たとし、直立のために背骨のS字カーブは必要なものと肯定的に論じている。馬貴派八卦掌をはじめ中国の養生思想ではこの評価を逆転させる。背骨のS字カーブを人類以前の直線的なカーブに戻すことで、人間が失った根源的な生命力を取り戻すことができる、と考えた。なぜならまさにそのへこんだ腰のところには、腎臓があり、命門という経穴がある。そこに気を送って充実させる=へこんでいる腰をしっかり張ることが生命力を高めることになるというわけだ。

もちろん、科学的な根拠がどれほどあるか、また仮に根拠があったとしても伝統的な修養法が昔から卓越した知見を持っていたとそもそも言えるのか、などなど問題はある。ただこうした養生論や修養論の語りが、人間の身体を通じて原初の自然に遡ることで活力を得ようとする定型に収まるということは興味深い。

『易筋経』における筋(すじ)の鍛錬過程

李先生によれば、『易筋経』には、筋(すじ)を具体的にどう鍛えればよいのか、その道筋が示されているとのことです。それは概略以下のようなものです。

靡←→弱



長(展)

勁(強)

“靡”の状態は、どんよりと曇った天気を想像するとよいそうです。雨が降っているわけではないから悪い天気とはいえず、かといって雨が今にも振りそうだから良い天気ともいえない、そんな状態です。
人間もしばしばそんな状態にあります。とりたてて元気があるわけではないが、かといって寝込んでしまうほどでもない、疲れたようなそうでないような状態です。ここで、きちんと身体を動かすかどうかが、健康かどうかの分かれ道になるそうです。何もしなければ、“弱”って身体を悪くします。そこで休めば何とかまた“靡”まで戻りますが、またしばらくすると“弱”ってしまい、の繰り返し。

そこで筋を鍛えて健康になろうとするわけですが、まずそこで大切なのが、身体を部分部分で動かしたりせずまとまって動くようにすること、“和”の状態を目指すことです。何故なら筋は身体の各部分をつなげているからです。身体をまとめて動かすということは筋を使うことにつながるということです。
それができたら次に筋を“長”く展開させます。筋肉を使って力を入れて強く動くのではなく、ストレッチのようにとにかく大きく伸ばすようにします。

筋がしっかりのびれば、気血もよくめぐるようになります。関節部分が縮んだままだと、そこで気血の流れが止まってしまうからです。そして気血がめぐるようになれば、筋に栄養がしっかり運ばれ筋が成長し、“強”い筋が鍛えられるとのことです。
単純にただ力まかせに鍛えても、かえって全体のバランスを崩すために、筋を強くすることが難しくなるそうです。力を得るためにはいったん捨てなければならないわけです。

武術の理想の境地を、「視之如婦。攻之如虎。」(見た目は女性のよう、戦うときは虎のよう)と表現することがあります。見た目がいかつい人間は、かえってそれに見合うだけの攻撃力を持っていない。これを『易筋経』の立場で解釈すれば、いかにも力があって強く見えるのは、腕など身体の部分部分に力が分断されているがために目立つからで、分断された分だけ力は弱いことになります。しかし身体が一つにつながり気血がとどまることなく巡っていれば、身体は血行がよく若い娘のように生き生きとしてみえる。そういう身体の方が本当の力を出せるのだそうです。

八卦掌の八卦は空間ではなく時間を示すこと

ワン ユージエ師(正体がばれないよう漢字は当てない)が僕に問いかけた。
「君の武術の師匠は、八卦掌の八卦という言葉自体には方向を示したりする上で、特別な意味はない、と教えているそうだね?」
「はい、李先生は、乾がどっちの方角だとか、一周を八卦に合わせて八歩で歩けとか、そういうことは言われないですね。」
「うむ、それは正しい。というのも、八卦掌の八卦は、本来空間を指示するものではなかったのだよ。」
「空間ではない。。。では、時間ということでしょうか?」
「うむ、なかなか分かってきているな。そう、修行における季節の重要性なのだ。日本の江戸?時代だったか、有名な禅僧の話をこのあいだしていたろう?」
白隠禅師ですね。夜船閑話に八卦と気の消長について書かれた部分があります。。。あれ、忘れてきちゃった。代わりに『近世畸人伝』の白幽子の条を参照しましょう。現行の閑話とは文字の異同がありますが。ええと、

五陰上に居り、一陽下を占む。是を地雷復といふ。冬至の侯也。真人の息は踵を以てするの謂、三陽下に位し、三陰上に居す。是を地天泰といふ。孟正の侯也。天之を得れば。則万物発生の気を含み、百草春化の沢を受く。至人、元気を下に充たしむるの象。人、是を得れば、営衞充塞、気力勇壮也。之に反する則は五陰下に居り、一陽上に止る。是を山地剥といふ。九月の侯にして、天人ともに枯槁揺落の象也。かかれば真気を臍輪丹田に蔵し、歳月を重て、守一無適なれば、長生久視の神仙なるべし。浩然の気を養ふといふも亦是也

となっています。」
「そうそう、この地天泰の象が上虚下実の理想を表すものなのだ。しかし間違えてはいかんぞ。この象だけが大切なら八卦掌とは言わない。それに第一、道教の理想は純陽の体、乾卦だな、それを目指して陰の気を消し去ることだろう?」
「確かに先生のおっしゃる通りですね。何故だろう。。。」
「変化だよ。そのまま神仙にでもなって飛び去ってしまえるのならいいが、なかなか無理な話だ。いいか、一年を通じて陽の気は増減する、これは自然の摂理で誰も逆らえない。そこで、その変化に合わせて、その時々に修行の方法やテーマを変える。自然に逆らわなければ、自分が持ち合わせている気を疲弊させずにすむ。それでようやく気を貯めることができる。稼いだ端から使っておっては何も貯まらないだろう?全体の流れを知らないといかん。地天泰はその気の流れ、変化に対応できる。陰陽半々だからな。安定した理想の状態とは、動的な平衡の実現なんだよ。」
「循環と変化ですね。白隠より後の佐藤一斎も同じようなこと書いていたような。」
「そうだろう、そうだろう。」
「李先生も練習において季節や気候の変化をすごく重視されています。」
「さすがだな。君もそれだけ理解がすすんでいれば、次の口訣を授けてもいいだろう。いいか。。。」
「こうですか?」
「ちがう、ちがう」
(続く)